予備校時代の漢文の先生は、東北大学名誉教授佐川修先生でした。
書棚の奥を整理していると、30年以上前に書かれた先生の文章を発見するという幸運を得ました。
私にとって宝物といえる素晴らしい文章なので、ここでご紹介します。
視点『笑ッテ答エズ』含蓄の美学
中国の詩人・陶淵明は
「東の垣根に菊を折り取っていると、ふと目に入ったのは南の山、その悠揚せまらぬ姿、それを私はゆったりと眺めている」
と詠じ起こして、田園生活のすばらしさを叙し、
「ここにこそ人間の真実があるが、その訳を語ろうとして、もう言葉を忘れてしまった」
と結ぶ。
李白の詩にも、
「とんなつもりで奥山に住むかと人はたずねるが、わたしは笑って答えない(「笑而不答」一笑ッテ答エズ)けれどもなんともよい気持」
とある。
これは、陶淵明が失語症になったのでもないし、李白が相手を無視しているのでもない。
言葉の伝達機能には限界があるので、前後に述べられた表現を手がかりとして、言外にその意を悟ることを期待しているのである。
こうした言語観は、やがて、言葉をできるだけ簡潔にして、言外に深い情趣を読者に感じとらせるという、いわゆる含蓄、余韻、余情の美学を成立させた。
杜甫の
「国破レテ山河アリ、城春ニシテ草木深シ」
は、「山河アリ」の言外に、山や河のほかはすべて破壊し尽くされたこと、「草木深シ」の言外に、草や木のほかには人影さえ見えないことが含蓄されている。
「時二感ジテハ花ニモ涙ヲソソギ、別レヲ恨ンデハ鳥ニモ心ヲ驚カス」
は、楽しかるべき花や鳥が涙の種、悲しみのよすがであると詠ずるからには、その時勢がいかに悲痛かつ異常であるか、語れば多くの言葉を必要とするであろう。
含蓄の美学は、ひとり文学に限らず、中国における芸術にひろく理念として存在する。
絵画の世界で「絵ノ尽キタルトコロニ意アリ」と言い、「意ハ筆墨ノ外ニアリ」と言うのは、水墨画の空白の部分に形象を見ているのである。
白楽天が、薄命の老歌妓の琵琶の妙技を詠じ、その休止の合い間を
「別二幽愁暗恨ノ生ズルアリ、此ノ時声ナキハ声アルニマサル」
と叙したのは、声のないところで、老妓の人知れぬ深い悲しみを嘆いているのである。
表現されたものの外側に深い情趣を込めるという、含蓄の美学は、中国文化圏の中にある日本の芸術を支える重大なひとつの支柱でもあった。
含蓄、余情を主とする幽玄の精神が中世文学の基調であったのは、その一例である。
谷崎潤一郎から丸谷才一にいたる文章論が、一貫して説いてやまないのは中国古典文の簡潔に学べということであった。
特に、谷崎は含蓄を文章の生命であるとし、
「意味のつながりに間隙(かんげき)を置け」
と説く。
前後のセンテンスを論理的に接続させず、そのすき間は読者の想像にまかせるところに、余韻と味わいがこもるというのである。
落語は「間(ま)」の話芸」と言われる。
声色の使い分け、説明と話し言葉の使い分け、言葉を伴うしぐさと観客の笑いのタイミング、そこには皆すき間が巧みに配置され、いみじくも含蓄の美学が背後にひそめられているのである。
『文理タイムズ』第281号 昭和61年8月1日発行(執筆・校長 佐川修)
お慕いする先生の素晴らしい文章の後に、私の駄文を添えるのはなんだか気が引けます。
今回は、これにて失礼いたします。
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