はっぴーをパワーあっぷするブログ

四柱推命・紫微斗数・奇門遁甲を中心にいろいろなことを書き綴ります

【選挙と学級討議】One for all,all for one「子どもには言うクセに」

今日は、日頃から感じていることを思うまま書かせていただきます。

最近特に政治家の発言が学級討議の意見交換よりも明らかに幼稚で、内容も劣っているのではないか?と…。

「自分さえ目立てばいい」と内心では考えているのに、いかにも「国民のため」というポーズがどうも鼻につくのです。

人格否定も目に余りますし「国会中継は中高生に見せたくない」と思う親も多いはずです。

本当は国家の最高レベルの討議の場であるはずなのに…。

学級や生徒会の討議

国会より学級や生徒会の討議の方が立派かもしれない

 

 

「大人だから清濁併せ呑まなきゃいけない」というのは分かります。

しかし、「あんた全然併せ呑んでないでしょう」と言いたくなる政治家が目立ったりするから困ったものです。

本気で「国民の幸せのため」「将来子供たちが生活するはずの日本のため」に行動してくれる政治家はいないのか?

きっといるのでしょうが、そうでない人があまりにも目立つご時世で…。

今日の記事は嘆き節です。

一体いつからこうなっちゃったのか…。

少し古いですが、美空ひばりさんの『残侠子守唄』を思い出してしまいます。

自分さえよければよいという手合が多すぎます

まっとうに生きようとすればするほど、住みにくい世の中になったものでございます

 

「人は皆のために、皆は一人のために」学級討議の方が大人かも…

クラスで何かを決める時、

「クラスの全員にとって一番良い方向になるように話し合おう」

「よく考えてしっかり意見を言おう」

「自分だけのことを考えず、皆のためを意識しよう」

などがクラスの討議にあたって指導されます。

「一人一人がイキイキするクラス」

「一人一役、皆のために頑張れるクラス」

ということもよく言われます。

そして、

「発言は、人格を否定しない」

「反対意見にも耳を傾け、お互いに尊重し合う」

「お互いの立場を尊重することで議論がより良いものに高まる」

なども教わります。

そこには、

「少数意見にも耳を傾ける」

「反対意見を頭から否定しない」

「自分の意見を押し付けない」

という考えも含まれており、

「自分が目立てば良い」は幼稚です。

「自分さえよければ良い」という考えは横に置きましょう 。

などを一人一人が理解しないと、まとまるものもまとまりません。

「私はこう思うけれど、皆がそれで良くなるなら…」

という譲歩の姿勢も時には必要でしょう。

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大人の発言が幼稚に感じるのは…

  • 相手の立場を考えず言いたいことを(目立つために?)言う
  • 時には人格否定につながる発言にも平気で及ぶ
  • 明らかに反対目的の揚げ足取りをする
  • 自分が不利になると話をすり替える
  • 都合の悪い過去はなかったことにする

いずれも、国会で見受けられる場面です。

さらに、国会ではなくSNSなどでつぶやく。

人格否定に及んでも、事実誤認の発言をしても、まったく詫びない。

根拠のないことをあたかも事実のように誇張して、それを土台に否定意見を強く述べる。

自分が目立てば良いと思っているのでしょうかね?

「いいこと言ってくれる!」と喝采を浴びたいのでしょうかね?

国会での態度「情けない…」と思う

国会での態度「情けない…」と思う



そういう発言をする政治家が何人か(も?)目につきます。

それでいて「教育は大事」「人こそ宝」と平然と口にするのですから、何と言ったらいいのか「偽善者が!」と私なんかは言いたくなります。


この際ハッキリ言いましょう。

今の政治家と呼ばれる先生方の発言は、中学生や高校生よりも低品質なものが多いです。

なぜなら、国民の幸せを本気で考えての発言とは思えないからです。

「言った者勝ち」「騒いだ者勝ち」、挙句には「切れた者勝ち」の風潮さえ感じられます。

国会通りなどを見ていて、切なく、そして腹立たしい思いを抱くのは私だけでしょうか。

 

学級討議の方がまともな理由

相手の人格を否定したらクラスに居場所がなくなります。

昔、村単位で生活していた頃は、あまりに自分勝手な主張を通す者は村八分になったはずで、必然的に「自分だけ良ければ良い」という考えは抑えられていました。

学級討議では、反対意見を全く聞かず自己主張を通す人は「ワガママな人」と認識されます。

でも政治の世界では、「舌鋒鋭い人」などと賞賛を浴びることもあり、その気になってしまう「先生」もいるようです。

クラスにそういう人がいたら、「腫れ物に触るように接して距離を取る」などして、あまり関わらないようにするものです。

そして陰では「どうもあの人は苦手で」と言われたりします。

賢い子は、そういう空気を察して、自分の立ち位置を考えたりするものです。

あるいは、自分の行動を反省したり。


それから、学校祭などクラスで一致団結して頑張る行事について、良いクラスは頑張っている人をダメ出ししたりしません。

「あの人頑張ってるけどちょっとやり方が違うからアドバイスしてあげよう」となります。

それは、その人のためでもありクラスのためにもなるからです。

「大人の世界と子どもの世界は違うから」というのは簡単ですが、「あまりにも大人が幼稚」と感じてしまいます。

「大人になったら何をしても良い」は違うと思うのですが…。

 

情報の伝わり方が変わってきた

話は変わりますが、戦時中は大本営発表がそのまま国民に伝わってきました。

戦後になって「騙されていた」と怒りの声があふれました。

しかし、よく考えると、確かに戦後は「大本営発表」はなくなりましたが、代わりに「大マスコミの情報」が大手を振ってきました。

「大本営発表ではないから信用できる」

その動きとしては中心に主催者があり、それを放送局や大新聞社が囲み、情報を取捨選択あるいは加工して、一般読者や視聴者に伝える、つまり下図のような状態がずっと続いていたように思います。

情報の伝わり方

情報の伝わり方は同心円状に広がる

ところが、最近になって上の図式が良い意味で崩れてきていると思います。

つまり、「主催者自身が大マスコミを経ずして情報を発信できる時代が定着してきた」と。

「あの人がこう言うのだから間違いない」

「あの新聞がこう書いているのだから正しい」

という時代ではなくなりつつある。

問題は「取捨選択・加工」の部分です。

それができにくい時代になってきた。

そういう意味では 良い時代になりつつあるのではないかと感じます。

でも、その分、自分たちもちゃんと勉強しないと…。

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選挙も政治も「皆にとって良くなることを」

学校の学級討議では、

(もちろん自分は大事だが)皆のために良い方向を目指そう!

というのが基本中の基本です。

その基本を元に「クラス行事では何をやるか」「学校祭の出し物はどうするか」などを決めていきます。

繰り返しますが、これは基本中の基本です。

ところが政治家選挙は、いつの頃からか知りませんが自分の生活のための投票が唯一絶対になっているような気がします。

「とにかく自分第一!」となると、これは自我の選挙です。


「自分にとって多少不便だけど、皆が良くなるなら今は少しぐらい我慢しよう」

という精神を中高生はわかっているのに、大人たちはほとんど…。

あるいは、選挙に全く無関心とか…。そのくせ「政治が悪い!」と怒り出す人も。


「自分さえ良ければよい」とそればかり考えると、それが結局は一人ひとりに不利に働くようになってくると思います。


声の大きい奴だけが勝って得する世の中さ

冒頭の美空ひばりさんの『残侠子守唄』のもう一節です。

昭和58年に発表された歌らしいので、すでにその頃からそういった風潮があったのでしょうね。

騒いだ者が得をするような世の中は私もまっぴらごめんです。

 

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