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『荘子』無心ということ「不射の射」損得計算の害「力を出し切るには」

道教は中国古来の民間宗教で、後漢末の太平道や五斗米道(ごとべいどう)が起源とされ、北魏の寇謙之(こうけんし)が新天師道(しんてんしどう)を組織して、国家宗教となったとされます。

不老不死の神仙思想と老荘思想が結合した現世利益(げんせりやく)的な宗教です。

 

上記のように高校の『世界史』の授業で教えられます。

しかし、その内容は『古典』の教科書でさらっと学ぶ程度です。

とても含蓄のある言葉を多く残っている『荘子』ですが、「不射の射」はおもしろいので書き記すことにしました。

 

弓矢の名人「列子」

弓矢の名人列子が、師に乞われ、百本の矢で連続速射を試みた。

第一の矢が的に当たり、続いて飛んできた第二の矢は誤たず第一矢の矢筈(やはず)に突き刺さった。

さらに間髪を入れず第三矢の鏃(やじり)が第二矢の矢筈にガッシと食い込む。

かくして、百本の矢は瞬く間に一直線に連なり、第百矢の矢筈はなお弓弦(ゆづる)を含むように見える。


つまり、百発百中です。まさに名人!と拍手喝采したいところですが…。

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「ひととおりできるようだ。しかし、これはまだ射の射で、不射の射ではない。」

は、こうつぶやきながら列子を近くの絶壁の突端の上に導く。

「どうだ、ここで先ほどの技をもう一度見せてはくれぬか」

折から空のきわめて高いところを輪を描いて飛んでいた鳶を指さす。

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列子は思わず地に伏した。

脚はワナワナ震え、冷や汗は流れて踵(かかと)にいたった。

師「では、不射の射というものをお目にかけようか」

列子に代わって絶壁の突端に立った師は、しばらくゴマ粒ほどの鳶を仰いでいたが、やがて見えざる弓を無形の弓につがえてヒョウと放てば、見よ、鳶は中空から石のごとく落ちてくるではないか。

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無念無想の強さ「損得計算の害」

あれほどの弓矢の名人が、絶壁の突端の上でも手も足も出なかったのはなぜでしょうか。

絶壁から墜落するかもしれない危険に気を取られたからです。

ところが、師の方は弓を射ることだけに集中し、絶壁はいうに及ばず、弓を射ることさえ念頭にはなかったのであります。

射の射とは、弓を射ることを意識する有心の射です。

有心であるかぎり、生命、恩愛、名誉などの世俗的価値を超越できないという教えです。

こんな危険な場所では生命も保証されず、名人としての腕前を見せるどころではないと、利害の計算も働くわけで、それが本来の実力発揮を妨げたのでしょう。

不射の射は、弓を射ることが頭にない無心の射です。

無念無想の射です。

ただそのことに夢中になる、没頭する。

一心不乱になるとき、あらゆる世俗的価値は忘れ去られ、弓を射ることさえ意識にのぼらなくなる。

射という行為はあっても、それが意識されないから主観的には不射なのです。

見えざる矢、無形の矢、ともに不射の射における弓と矢であることの比喩的表現です。

この「不射の射」の話は、無心であり、無念無想であってこそ蓄積された実力が存分に発揮されることを語っています。

「失敗したらどうしよう。父母は嘆く、世間体は悪い、これまでの苦労はムダになる。」

このような世俗的価値にとらわれて利害の計算に走ると、目の前にある課題のすべてが恐ろしくなって、脚がすくんでしまうばかりです。

気負わず、意気込まず、悲壮がらず、さらに無心、無念無想、もって実力を余すところなく発揮してくれることを切に願う・・・。

今が受験生にとって試練のときです。

本番が近くなったら、ほんの少しでいいから思い出してほしいと、私は受験生にこの話をよくしたものです。

もちろん、私自身への戒めも込めて。 

 

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