タクシーと大相撲を演じて40日に及ぶ入院生活。
「3週間様子を見て改善しなかったら手術する」
「手術しても治るかどうかわからない」
医師の言葉が脳裏から離れることはありませんでした。
どん底の気持ちを救ってくれたのは、やはり人でした。
- 夜になると聞こえてくる犬たちの悲鳴?
- 長すぎる24時間「天井を見るだけ」
- 読書が24時間を短くしてくれた
- 私の後悔「恩返しをしていない」
- 必ず言ったのは「交通事故には気をつけて」
- 接骨院から届いた不思議なお見舞い
- 回復の兆し「握力20㎏」の感激
昼も夜も細いロープにつながる布をアゴに当て、仰向けのまま一切の寝返りを禁じられていました。
ロープは滑車を経由し、その先にはオモリがありました。
私の頭部を24時間牽引し、狭くなった脛骨の負担を緩和する治療でした。
夜になると聞こえてくる犬たちの悲鳴?
「中心性頸髄損傷」
文字通り、頸の中心部を損傷したということです。
頸の中心部には大事な神経が通っています。
その神経が、首から下の全身に脳の指令を伝えるわけです。
それが壊れたら、半身不随…。
私の場合は、両手両腕以外は普通に動かすことができました。
医師が「君はラッキーだった」
という言葉が日に日に身にしみてきました。
「それでも3週間経って回復せず、手術をしても治らなかったら…」
生涯、腕を自由に使えない生活が待っています。
握力は10㎏に満たず、箸すら満足に持てませんでした。
スプーンを握るにも激痛に耐えなければならなかったのです。
「たしかに不幸中の幸いだったのかも。大学を辞めて足だけでできる仕事を探すか」
と真剣に考えました。
毎日、夜が深まると犬の遠吠えが聞こえてきました。
それもたくさんの声でした。
「大学病院だから実験にされるのか…」
本当は違うのかもしれませんが、私は確信していました。
「犬たちも大変だな。人間のために」
悲しそうな声でした。
「きっと、自分の運命をわかっているんだな」
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長すぎる24時間「天井を見るだけ」
つらかったこと。
それは、24時間ずっと天井を見る以外何もできなかったことです。
毎日、何人かの友人が見舞いに来てくれました。
「退屈だろうから」と本を毎回買ってきてくれる友人もいました。
ところが、私は本を読めなかったのです。
腕に力が入りません。
持っていると、手指が痛くなります。
元気な人なら、身体を横に傾けて読書することができます。
寝返りも打てます。
その時の私は寝返りも厳禁でした。
つまり、ずっと仰向けのまま本を持ち続けないと読めなかったのです。
腕はすぐに疲れました。
手指の痛みにも耐えられませんでした。
数ページ読んだら身体に限界が来たのでした。
何しろ入院当時の握力は6㎏しかなかったのですから。
読書はあきらめました。
また天井だけを見つめる無限の24時間が訪れます。
イライラが募る一方でした。
同じ病室には高校生Gくんと専門学校生A?くんがいました。
2人は足の怪我で入院していました。
膝の靱帯再建手術だと言っていました。
2人とも元気いっぱいでした。
私が入院した時にはすでに仲良くなっていて、楽しそうな会話を聞きながら仰向けの私は2人の顔を見ることすらできませんでした。
10日くらいが経った頃でしょうか。
「あの…、よかったらこれ使いませんか?」
高校生のGくんが、寝ながら本を読める機器を貸してくれたのです。
今、ネットで調べてみると「ブックアームスタンド」と出てきました。
読書が24時間を短くしてくれた
それから世界が変わりました。決して大げさではありません。
本をどんどん読みました。
のめり込んだのは三浦綾子さんの『泥流地帯』でした。
悲惨な話でした。
読み進むうちに「自分も頑張らないと」という気持ちにさせてくれました。
三浦綾子さんの小説を毎回持ってきてくれたのはA君でした。
「悲惨な運命に負けず頑張る主人公」を描いた本ばかりを選んでいることが何となく伝わってきました。
「お前、事故に負けるな」
と言いたかったのだと思います。
「もっと大変な人がいるんだぞ」と。
Gくんのお父さんは大学の先生でした。
きっと、入院する息子に「退屈させまい、本を読ませたい」という気持ちで買ったはずです。
それなのに、退院するその日まで完全に私の物になっていました。
もちろん、私は見舞いに来たGくんのお父さんに借用を確認しました。
「いいですよ、遠慮なく使ってください」
とても優しくおっしゃってくださいました。
私の後悔「恩返しをしていない」
ここまで書いて、猛烈な後悔が襲ってきました。
Gくんにろくに恩返しをしていないのです。
退院してから、ご自宅に伺ってお礼をするのが当然の礼儀です。
そんな当たり前のことを私はしなかった…。
一度だけお見舞いに行って、果物か何かを置いてきた記憶はあるのですが。
本当に申し訳ない気持ちです。
Gくんの名前は「巨木」です。苗字は書きませんが、検索したらフェイスブックに出てくるかもしれないと思い、今検索しました。
今さらながらお礼を伝えようと思ったからです。
彼は記憶にないかもしれません。
でも、あの器具がなかったら、私は、、、。
そのくらい、助けられました。
でも、それらしい人は見つかりませんでした。
三浦綾子、五木寛之、安部公房、、、、。
文庫本を週に3冊くらい買ってきてくれた友人Kくん。
毎週プロレス雑誌の新刊を買ってきてくれたTくん。
その他にもたくさんの友人達が、一日に最低でも2人はお見舞いに来てくれました。
そのうち、今も連絡を取っているのはほんのわずかなのです。
私は、何という恩知らずなのでしょう。
今は、連絡の手段もない人も含まれています。
罪滅ぼしとして心に決めていること。
「今現在、私と関わってくれる人たちには精一杯の誠意を持ってお付き合いさせてもらおう」
今となっては、それしかできないのですから。
必ず言ったのは「交通事故には気をつけて」
お見舞いに来てくれた友人達に必ず言った言葉があります。
「交通事故には気をつけて」
「わかったよ」と皆が答えましたが、真剣な顔に見えませんでした。
誰の顔にも「自分は大丈夫」と書いてありました。
私は言いました。
「偶然と偶然が重なりあえば誰でも交通事故は起こり得る」
「ホンの一瞬の判断ミスが簡単に事故につながる」
「少し前までは俺も事故になんか遭うはずがないと思い込んでいた」
全てが本音でした。
私にしても、交通事故の当事者になる前は「自分は交通事故とは無縁」と根拠のない自信を持っていました。
だから、せめてお見舞いに来てくれた友人には伝えたかったのです。
「誰にだって突然の不幸は起こり得るんだよ。油断してはダメだよ」と。
若い頃は、往々にして怖いものなしです。
「自分だけは大丈夫」と思いがちです。
だから、「気をつけなよ」と言っても心に響かないのだと徐々にわかってきました。
それでも言い続けることにしていました。
ほんの少し前まで元気だった自分が、寝たきりになっている。
それは紛れもない事実だったからです。
そんな時、「K部くんが交通事故に遭った」という知らせが入りました。
聞いた内容は次のようなことでした。
バイクで東京まで行こうとした時のことです。
赤信号のため交差点で停車していると、後ろからトラックに追突されたと。
「無事だったの?」と聞くと、「命は助かったけど、腰から下に障害が残るみたいだ」
この事故は私のケースと違って、100パーセント相手の過失です。
K部くんの悔しさと無念さは相当なものだったに違いありません。
でも、命が助かったのは本当によかったです。
そのK部くんとも今は連絡が途絶えています。
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接骨院から届いた不思議なお見舞い
入院していると、不思議なことがあるものです。
ある日、白衣を身にまとった人が果物カゴを手に病室に来てくれました。
「〇藤接骨院です。先生のお使いで持ってきました」
私が定期的に通っていた仙台市国見にあった接骨院からのお見舞いだとわかりました。
届けてくれたのは、実習生の若い方でした。
高価な果物がカゴ一杯に詰め込まれていました。
「これはスゴい!ありがとうございます!先生によろしくお伝えください」
ところが、実習生が病室を去った後、
「どうして先生は俺の事故を知っているのだろう?」
という疑問がわいてきました。
「それに、一介の学生への見舞いとしては高価すぎる」
電話しようかとも考えましたが、「ま、いいか」で落ち着きました。
退院後、接骨院に1万円分の図書券を持ってお礼に行きました。
先生は「は?なんで?」という表情になりました。
案の定、実習生の勘違いだったようです。
私の推理は次のとおりです。おそらく正解でしょう。
- 実習生は、先生からお見舞いのお届けを頼まれた
- 病院に到着し、病室を探していたら名札に見覚えがある名前(私の名前)があった
- 部屋に入るとこれまた見覚えがある顔(私の顔)があった
- 「先生がお見舞いを頼んだのはこの人だ」と確信した
- お見舞いの果物セットを私に渡した
困惑の表情を浮かべる先生に私は再度お礼を言いました。
先生にしても「アンタではなかったんだよ」と言えなかったのだと思います。
それを察した私も、あえて何も言わず笑顔でお礼を言って帰りました。
その後、実習生に連絡し確認したに違いありません。
もし、退院した後だったとしたら、間違いなく気まずかったでしょうね。
やっぱり、病院からお礼の電話をすぐに入れるべきでしたね。
回復の兆し「握力20㎏」の感激
そんな日々を経ながら、少しずつ両手に回復の兆しが出てきました。
手に力が少しずつ戻ってきたのです。
箸も持てるようになりました。
握力計が20㎏近い数値を出した瞬間の喜びは今でも覚えています。
「これはもしかしたら治るかも」
だんだん心に明るい光が見えてきたのは、その頃からでした。
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