「諸葛孔明は奇門遁甲を駆使した」と書かれたものは多いです。
諸葛孔明が死没したのは西暦234年とされていますので、相当な昔のことです。
「本当に使ったの?その根拠は?」など歴史的背景から考察してみました。
- 劉備玄徳の蜀に三顧の礼で迎えられた諸葛孔明
- 西晋の時代に、陳寿が『三国志』を書き記した
- 『三国志演義』は『水戸黄門漫遊記』の類の娯楽もの
- 国を奪い返す強いヒーローに憧れた宋の時代
- 「諸葛孔明は奇門遁甲を駆使して連戦連勝した」根拠は、、、
- 奇門遁甲は効果を期待できるが、過信し過ぎないことが大切
- 諸葛孔明が有名になった最大のきっかけは
劉備玄徳の蜀に三顧の礼で迎えられた諸葛孔明
紀元220~265年頃の中国大陸は、魏・呉・蜀の三国が覇を競っていました。
三国のパワーバランスを数値にしてみると、(魏)6:(呉)3:(蜀)1くらいでしょう。
人口も土地の利も圧倒的に魏が有利で、最も不利な土地柄にあったのは劉備玄徳の蜀でした。
この圧倒的な不利な状況で奮闘したことが、後の人気につながったことは確認しておく必要があります。
諸葛孔明は三顧の礼をもって劉備玄徳に迎えられ、蜀の勝利を目指して尽力したのは有名な話です。
劉備玄徳や諸葛孔明たちの奮闘空しく、結局、覇権を手にしたのは魏でした。その後、あとを継いだ西晋が中国大陸を統一しました。
ここに判官贔屓の根ができたことは想像してもよいと思います。
西晋の時代に、陳寿が『三国志』を書き記した
陳寿(ちんじゅ)は魏の人でしたが、『三国志』は比較的公平な視点で書き記された書物であると評価されています。
このような背景で書かれた場合には、ほとんどが魏に肩入れした内容になることがほとんどなのに、そうではないことが特筆されるところです。
実はこの『三国志』ですが、内容は読み物としてはあまりおもしろくないのです。
それも当然で純粋な歴史書の位置づけにありますから、物語的な起承転結には乏しいわけです。
もちろん、後の『三国志演義』のようなドラマ的な要素は描かれていません。
ですから、『三国志』と『三国志演義』は似て非なる書物です。
さて、時代は、北は西晋から北魏に移り、南を併合した隋が大陸を統一しました。
そして大国家である唐の長い時代を経て、西暦1000年くらいに宋の時代になりました。
宋は国内の経済発展に力を入れた国で、詩詞や演劇などの文化も発展しました。
そのため、六朝の志怪小説、唐・宋の伝奇小説を起点にフィクションを娯楽にする流れができました。
その流れから、『三国志演義』『水滸伝』などの原形となるものが書かれたとされています。
ただし宋と元の時代に書かれたとされる『三国志演義』の大部分は紛失し、現在読むことができるのは明の時代に書かれたものです。
『三国志演義』は『水戸黄門漫遊記』の類の娯楽もの
こうして多くの読者を魅了する『三国志演義』は、実際の三国時代から1100年くらい後に書かれたわけです。
1100年です!相当の年月を経てから書かれたことになります。
その間に、どれだけ正しく歴史が伝わり、人の恣意が加わったかも検証が難しいのは言うまでもありません。
注目しなければならない点は、演劇の人気が絶頂の時代だったからこそ書き上げられたと書物であるという歴史的事実です。
すると、当然のごとく内容はあくまでも演劇仕様の起承転結が盛り込まれ、それゆえに物語性が高まり人気を博したと推論できます。
この経緯からもわかるように、『三国志演義』の内容は、史実よりも大衆受けを狙った演劇仕様です。おもしろさを追求した戦国ドラマです。
日本でいえば、徳川光圀の行跡が、明治時代になって『水戸黄門漫遊記』として大衆向けにドラマ化されたのと似ているといえます。
黄門様の時代は戦国ではありませんが。
さて、歴史に視点を戻すと、宋の国は軍事強国に囲まれた外交面では厳しい時代にありました。
遼や金、西夏という周囲の国々からたびたび脅かされましたが、そのたびに経済力で解決して生き延びた国です。
それが可能だったのも、経済面では豊かな国だったからです。
経済力がある国では、文化や芸術が盛んになりやすいので、演劇が栄える下地はあったわけです。
国を奪い返す強いヒーローに憧れた宋の時代
宋は、常に外的勢力に脅かされていたために、国を守らなければ!という意識が高まり、その意識が国粋主義色の強さとなって定着します。
それが、国を力で奪い返す強いヒーローへの憧れへとつながっていくわけです。
強いヒーローは戦いの舞台で活躍します。すると、大衆の人気は、胸がスカッとする戦争劇に集まります。日本でいえばチャンバラ劇です。
当時のチャンバラ劇のヒーローが関羽や張飛だった
絶大に強いヒーローとして人気を集めた代表が、関羽と張飛です。
しかし、時代が進むにつれ、知識人はそれに飽き足らずより高い次元の内容を求め始めます。それが「大義名分論」への希求へとつながります。
作品世界も時代の変遷と共に、チャンバラ娯楽から儒教的倫理観へと色合いを変えていきます。『三国志演義』を読了された方も、作品の変貌にきっと気づかれているかと思います。
儒教的倫理観を作中で体現する人物が諸葛孔明
このような流れから『三国志演義』は、
- 前半の主人公は、関羽と張飛などチャンバラ劇の絶対的に強いヒーロー
- 後半に主人公は、諸葛孔明という儒教的倫理観を体現する知的なヒーロー
とへ世界観が変わっていきます。
元はモンゴル人の国家です。
漢民族が、モンゴル人から大陸を奪い返して立国したのが明です。
この経緯から明の国民は、強敵相手に「知」を駆使して国を奪い返してくれる英雄にロマンを求めるようになります。
それを象徴するヒーローが諸葛孔明でした。
あらゆる「知」を縦横無尽に使いこなしながら強敵を倒していくヒーロー諸葛孔明の描写は、当時の人々の溜飲を下げたに違いありません。
そして、奇門遁甲は知の一つのアイテムとして絶大な効力があるものとして喧伝されることになります。
水戸黄門の紋所と例えるとわかりやすいかも知れません。
実際に効力はあったはずですが、それが肥大化して宣伝されるようになると、実態は事実から遠ざかってしまうのは仕方がないことです。
このような考察から、諸葛孔明は、歴史的背景や世相に後押しされて、『三国志演義』の作品世界で等身大以上の人物になったのが事実に近いと私は考えます。
水戸黄門が漫遊記によって全国を旅して悪を懲らしめるヒーローへと変身したように。
「諸葛孔明は奇門遁甲を駆使して連戦連勝した」根拠は、、、
奇門遁甲の宣伝に、諸葛孔明の名前がよく使われています。しかし、以上の考察から歴史的根拠としては薄いのではないかと考えます。
「あの諸葛孔明が使用した奇門遁甲!」のうたい文句は間違いなく説得力のある看板になりえます。
ですから、どこかの時代で宣伝に使われて、その後インパクトの大きさゆえに看板が引き継がれてきたと考えるのが自然のような気がします。
少なくとも、『三国志演義』を根拠に奇門遁甲の効果を宣伝するのはやや無理があると考えるのです。
奇門遁甲は効果を期待できるが、過信し過ぎないことが大切
奇門遁甲は効果を実感できる素晴らしいアイテムだと思います。
諸葛孔明が使用したかどうかの是非は別としても、長い歴史を経て伝承されてきたことが、その実効性を示していると思います。
私自身、時間があれば使って効果を実感しています。
しかし、例えば、「死門の方向に引っ越したから、あなたは不幸になります」などと書かれているものを見てしまうと、「そんな不安をあおってあなたは何がしたいの?」と私は思ってしまうのです。
これは気にすることの弊害しか生まないはずで、知らない方が良いことをわざわざ知らせるよけいなお節介と言わざるを得ません。
気にすることで不安を招くなら、知らない方が幸せですし、今は戦国時代ではないので、そもそも奇門遁甲などのアイテムは、マイナス効果よりもプラス効果を意識して用いるアイテムだと思います。
そもそも、知らずに死門などの凶方向に旅行に行ってしまった人などたくさんいるはずなのです。
それでも今は元気に生きているではありませんか。
方位や方角を必要以上に怖がり過ぎず、また過大評価もせず、適切に用いることで運気を上げてくれる便利なアイテムの一つなのだと「奇門遁甲」を認識し、使えるときに無理せず使うというスタンスでいた方が、豊かでゆったりとした人生を歩めるのではないでしょうか。
諸葛孔明が有名になった最大のきっかけは
本名は、諸葛亮(しょかつりょう)。字(あざな)は孔明。
字とは、正式なニックネームみたいなものです。
当時の中国の人は、本名は神聖なものであるとして、よほどの身内でない限りは字で呼ぶことになっていました。
諸葛孔明は『三国志』に登場する実在の人物ですが、当時の人たちには「関羽」が圧倒的に人気があったとされています。
人気を超越して「神」とされています。
諸葛孔明を有名にした最大の要因は『出師表(すんしのびょう)』だと言われています。
これは、諸葛孔明が劉備玄徳の息子である劉備禅に宛てた手紙で、名文中の名文とされており、「小国でも、忠誠心の強さで大国に十分に対抗できる」といった激励の手紙です。
純粋な国粋主義的な内容ですが、あまりの名文で多くの人々の胸を打ったようです。
そこから関羽のような神格化はそこから始まったと私は考えております。
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