「諸葛孔明は奇門遁甲を使って百戦百勝!」と書かれたものは多いです。
歴史的背景から考えて、私はあまり信じていません。
諸葛孔明が死没したのは西暦234年とされていますので、相当昔のことです。
「本当に使ったの?その根拠は?」
歴史的背景からざっくり考察してみました。
- 【奇門遁甲】効果抜群「方位を間違うと死ぬこともある…!?」
- 【奇門遁甲】諸葛孔明は本当に駆使したのか!?
- 【奇門遁甲】諸葛孔明「宣伝の看板に使われた…」
- 【あとがき】諸葛孔明を神格化したのは「奇門遁甲」ではない
【奇門遁甲】効果抜群「方位を間違うと死ぬこともある…!?」
【奇門遁甲】諸葛孔明~「赤壁の戦い」は奇門遁甲を使った!?
私が最初に四柱推命の鑑定を受けたときのことです。
「奇門遁甲は開運にバツグンの効果があるんだけどね…。方位を間違うと死ぬこともある恐るべき効果を発揮するからお客さんには使わせないんだよ。」
と言いました。
私、「そんなに効果があるんですか?」
占い師、「バツグンだよ。諸葛孔明は奇門遁甲を使って戦は連戦連勝。
なにしろ10万本の矢をたった3日で敵から奪ったんだからね。」
私の心、(草船に矢を射させて10万本ゲットした「赤壁の戦い」のことを言っているんだな。そもそもあれは作り話…)
占い師、「スゴいでしょ!?10万本を3日で手に入れるんだから奇門遁甲の効果のスゴさがわかるでしょ!?
私、「はい、スゴいですね…」(あれは絶対に作り話なのに…)
「赤壁の戦い」のあらすじ
あまりに有名なのでご存知の人も多いと思いますが、「赤壁の戦い」のあらすじを簡単に書き記します。
その頃、蜀と隣国の呉は連合していました。
しかし、呉の大将たちは諸葛孔明のことを快く思っていませんでした。妬みの感情すら持っていました。
そこで、 諸葛孔明を陥れる謀略が練られました。
「北部からの襲撃に備え、10万本の矢が必要だ」
と彼らは諸葛孔明に伝えました。
攻撃は10日以内に始まり、矢を準備できない場合は処刑されると言い渡します。
諸葛孔明は「3日あれば十分です」 と微笑みながら答えました。
最初の2日間で、諸葛孔明は20般の船を集め、それぞれの船に30名の兵士を配備しました。
そして、藁で編まれた 「かかし」をたくさん用意しました。
いよいよ3日目になりました。諸葛孔明は、20般の船を率いて揚子江を渡りはじめました。
揚子江全体が深い霧に包まれていきます。
諸葛孔明は、太鼓を激しく打ち鳴らし、叫び声をあげることを兵士たちに命じました。
この騒動に恐れおののき混乱した敵兵は、音の方向に向かって無数の矢を放ち続けました。
諸葛孔明は敵陣に向かって船を一直線に並べました。
矢は激しく降り注ぎ、かかしにどんどん突き刺さりました。
受けた矢の重さで船が傾くと、 船は向きを変え反対側に矢を射させました。
すると、船はバランスを取り戻しました。
10万本以上の矢が刺さった船と一緒に諸葛孔明は、自軍に戻りました。
船を迎え入れた呉の大将たちは困惑を隠せませんでした。
「いったいどうやってそれほどまでの卓越した戦略を編み出したのですか?」
諸葛孔明は、
「戦に勝つには、天文学、地理、 易断、陰陽の原理にも通じている必要があります。深い霧に包まれることが分かっていたので、この戦略を編み出したのです」
と答えました。
「赤壁の戦い」は作り話~火を放たれたら一巻の終わり
諸葛孔明のファンの方には申し訳ないのですが、「赤壁の戦い」は創作だと私は考えています。
理由は次のとおりです。そこにいたのは仮にも兵士たちです。
- 木造の船は火に弱いことを知らないはずがない
- 相当数の兵士のうち1人くらいは冷静な者がいないわけがない
- 数人くらいは火を焚くことを考えたはず
木造で藁で編まれた 「かかし」をたくさん積んだ舟が火を放たれたら…、考えるまでもありません。
【奇門遁甲】諸葛孔明は本当に駆使したのか!?
劉備玄徳に三顧の礼で迎えられた諸葛孔明
紀元220~265年頃の中国大陸は、魏・呉・蜀の三国が覇を競っていました。
三国のパワーバランスを数値にしてみると、(魏)6:(呉)3:(蜀)1くらいでしょう。
人口も土地の利も圧倒的に魏が有利でした。
最も不利な土地柄にあったのは劉備玄徳の蜀でした。
圧倒的な不利な状況で奮闘したことが、後の人気につながったことは確認しておく必要があります。
諸葛孔明が三顧の礼をもって劉備玄徳に迎えられ、蜀の勝利を目指して尽力したのは有名な話です。
しかし、劉備玄徳や諸葛孔明たちの奮闘空しく、結局、覇権を手にしたのは魏でした。
その後、あとを継いだ西晋が中国大陸を統一しました。
ここに判官贔屓の根ができたことは想像してもよいと思います。
西晋の時代に、陳寿が『三国志』を書き記した
陳寿(ちんじゅ)は魏の人でしたが、『三国志』は比較的公平な視点で書き記された書物であると評価されています。
こういった背景で書かれた場合には、魏に肩入れした内容になるのが普通なのに、そうではないことが特筆されるところです。
実はこの『三国志』ですが、内容は読み物としてはあまりおもしろくないです。
純粋な歴史書の位置づけにありますから、物語的な起承転結には乏しいわけです。
もちろん、後の『三国志演義』のようなドラマ的な要素は描かれていません。
ですから、『三国志』と『三国志演義』は名前は似ていますが、内容としては異なる書物です。
さて、時代は、北は西晋から北魏に移り、南を併合した隋が大陸を統一しました。
そして大国家である唐の長い時代を経て、西暦1000年くらいに宋の時代になりました。
宋は国内の経済発展に力を入れた国で、詩詞や演劇などの文化も発展しました。
そのため、六朝の志怪小説、唐・宋の伝奇小説を起点にフィクションを娯楽にする流れができました。
その流れから、『三国志演義』『水滸伝』などの原形となるものが書かれたとされています。
ただし、宋と元の時代に書かれたとされる『三国志演義』の大部分は紛失しました。
現在読むことができるのは明の時代に書かれたものです。
『三国志演義』は『水戸黄門漫遊記』の類の娯楽もの
こうして多くの読者を魅了する『三国志演義』は、実際の三国時代から1100年くらい後に書かれたわけです。
1100年です!相当の年月を経てから書かれたことになります。
その間に、どれだけ正しく歴史が伝わり、人の恣意が加わったか、その検証が難しいのは言うまでもありません。
注目しなければならない点は、演劇の人気が絶頂の時代だったからこそ書き上げられたと書物であるという歴史的事実です。
当然のごとく内容には演劇仕様の起承転結が盛り込まれました。
それゆえに物語性が高まり人気を博したと推論できます。
この経緯からもわかるように、『三国志演義』は、史実よりも大衆受けを狙った演劇仕様です。おもしろさを追求した戦国ドラマです。
日本でいえば、徳川光圀の行跡が、明治時代になって『水戸黄門漫遊記』として大衆向けにドラマ化されたのと似ているといえます。
さて、歴史に視点を戻すと、宋の国は軍事強国に囲まれた外交面では厳しい時代にありました。
遼や金、西夏という周囲の国々からたびたび脅かされましたが、そのたびに経済力で解決して生き延びた国です。
それが可能だったのも、経済面では豊かな国だったからです。
経済力がある国では、文化や芸術が盛んになりやすいので、演劇が栄える下地はあったわけです。
国を奪い返す強いヒーローに憧れた宋の時代
宋は、常に外的勢力に脅かされていました。
そのため、「国を守らなければ!」という意識が高まり、それが国粋主義色の強さとなって定着します。
それが、国を力で奪い返す強いヒーローへの憧れへとつながっていくわけです。
強いヒーローは戦いの舞台で活躍します。
すると、大衆の人気は、胸がスカッとする戦争劇に集まります。
日本でいえばチャンバラ劇です。
当時のチャンバラ劇のヒーローが関羽や張飛だった
絶大に強いヒーローとして人気を集めた代表が、関羽と張飛です。
しかし、時代が進むにつれ、知識人はそれに飽き足らずより高い次元の内容を求め始めます。
それが「大義名分論」への希求へとつながります。
作品世界も時代の変遷と共に、チャンバラ娯楽から儒教的倫理観へと色合いを変えていきます。
『三国志演義』を読了された方も、作品の変貌にきっと気づかれているかと思います。
儒教的倫理観を作中で体現する人物「諸葛孔明」
このような流れから『三国志演義』は、
- 前半の主人公は、関羽と張飛などチャンバラ劇仕様の絶対的に強いヒーロー
- 後半の主人公は、諸葛孔明という儒教的倫理観を体現する知的なヒーロー
とへ世界観が変わっていきます。
元はモンゴル人の国家です。
漢民族が、モンゴル人から大陸を奪い返して立国したのが明です。
この経緯から明の国民は、強敵相手に「知」を駆使して国を奪い返してくれる英雄にロマンを求めるようになります。
それを象徴するヒーローが諸葛孔明でした。
あらゆる「知」を縦横無尽に使いこなしながら強敵を倒していくヒーロー。
それが諸葛孔明だったのです。
そして、諸葛孔明が持つ知の一つのアイテムとして「奇門遁甲」が絶大な効力を持つものとして喧伝されることになります。
水戸黄門の紋所と例えるとわかりやすいかも知れません。
このような考察から、諸葛孔明は、歴史的背景や世相に後押しされて、『三国志演義』の作品世界で等身大以上の人物になったのが事実に近いと私は考えます。
水戸黄門が漫遊記によって全国を旅して悪を懲らしめるヒーローへと変身したように。
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【奇門遁甲】諸葛孔明「宣伝の看板に使われた…」
奇門遁甲の宣伝に、諸葛孔明の名前がよく使われています。
しかし、以上の考察から歴史的根拠としては薄いのではないかと考えます。
「あの諸葛孔明が使用した奇門遁甲!」のうたい文句は宣伝の看板になりえます。
少なくとも、『三国志演義』を根拠に奇門遁甲の効果を宣伝するのはかなり無理があると考えるのです。
【奇門遁甲】効果を期待できるが、過信し過ぎないことが大切
奇門遁甲は効果を実感できる素晴らしいアイテムだと思います。
諸葛孔明が使用したかどうかの是非は別としても、長い歴史を経て伝承されてきたことが、その実効性を示していると思います。
私自身、時間があれば使って効果を実感しています。
しかし、例えば、
「死門の方向に引っ越したから、あなたは不幸になります」
などと書かれているものを見てしまうと、
「そんな不安をあおってあなたは何がしたいの?」
と私は思ってしまうのです。
そもそも、知らずに死門などの凶方向に旅行に行ってしまった人などたくさんいるはずなのです。
それでも今は元気に生きているではありませんか。
方位を必要以上に過大評価もせず、適切に用いて運気アップをする。
「奇門遁甲」を認識し、使えるときに無理せず使うというスタンスでいた方が、豊かでゆったりとした人生を歩めるのではないでしょうか。
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【あとがき】諸葛孔明を神格化したのは「奇門遁甲」ではない
本名は、諸葛亮(しょかつりょう)。字(あざな)は孔明。
字とは、正式なニックネームみたいなものです。
当時の中国の人は、本名は神聖なものであるとして、よほどの身内でない限りは字で呼ぶことになっていました。
諸葛孔明は『三国志』に登場する実在の人物ですが、当時の人たちには「関羽」が圧倒的に人気があったようです。
人気を超越して「神」とされています。
諸葛孔明を有名にした最大の要因は『出師表(すんしのひょう)』だと言われています。
これは、諸葛孔明が劉備玄徳の息子である劉備禅に宛てた手紙で、名文中の名文とされており、「小国でも、忠誠心の強さで大国に十分に対抗できる」といった激励の手紙です。
純粋な国粋主義的な内容ですが、あまりの名文で多くの人々の胸を打ったようです。
そこから諸葛孔明の神格化はそこから始まったと私は考えております。
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