20年くらい前、伊勢神宮を参詣した際には、その雰囲気と趣に圧倒されました。
「人が多いのに静寂…」。何とも形容しがたい神聖さが満ちた場所でした。
「出雲大社」。
島根に行く機会がなかなかありません。でも、北海道新十津川町に分院があります。
【出雲大社】
出雲大社は、「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」には杵築大社(きねづきのおおやしろ)と記されている。現在の社名に改称されたのは明治4(1871)年のことである。
記紀神話によれば、素盞鳴尊(スサノオノミコト)の6世の孫である大国主神(オオクニヌシノカミ)は葦原中国(あしのはらのなかつくに)で国作りを行ったが、高天原(たかまのはら)からの使者の求めに応じてその国を譲った。その際、千木(ちぎ)が高天原に届くほど高々とした天孫(てんそん)の住処と同じぐらい大きなを建てることを要求した。こうして造営されたのが、天日隅宮(あめのひすみのみや)で、出雲大社の創祀とされる。
このとき高天原の主宰神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、国譲りにあたり、第二子の天穂日命(あめのほひのみこと)を大国主神に仕えさせた。その子孫は代々「出雲国造(いずものくにのみやつこ)」を名乗り、出雲大社の宮司職を継承している。
さて、10月のことを「神無月(かみなつき)」と呼ぶが、出雲地方では「神在月(かみありつき)」と呼ぶ。その理由は、全国の神々が出雲に集まり、縁結びの相談をするためだという。毎年、旧暦10月10日には、稲佐(いなさ)の浜で神迎え神事が行われる。
出雲大社の大社造(たいしゃづくり)は、伊勢神宮の神明造(しんめいづくり)と並ぶ最古の神社建築様式である。現在の本殿は、江戸時代の造営で国宝に指定され、高さは、八丈(二十四メートル)ある。
一説に平安時代には十六丈(48メートル)の高さがあり、さらに古くは三十二丈(96メートル)あったといわれる。東大大仏殿が十五丈(45メートル)だった時代に、出雲大社は世界最大規模の木造建築であったのだ。
『カラー図解 イチから知りたい!日本の神々と神社』(三橋 健)西東社
大国主神の国譲り~建御名方神の抵抗
最強の武神の登場
舞台は出雲の稲佐の浜。大国主の前に建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)が現れた。高天原が送り込んだ3番目の使者で、強力な武神である。建御雷は剣の柄を海に刺して立て、刃の切っ先の上に胡坐をかいて大国主に問うた。
「地上は天照大御神と高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)の命で、高天原の御子が治めることになった。国を譲る気持ちはあるか」
大国主は美保関の岬にいた事代主神(コトシロヌシノカミ)を呼び、意見を求めた。やってきた事代主は献上を認める。だが事代主はその後、天(あま)の逆手(さかて)を打ち、自分の船を転覆させて柴垣にかえ、その中に隠れるという行動に出た。
この事代主の行動については、さまざまな解釈があるが、天の逆手とは呪術的な拍手の仕方で、柴垣に籠って無言の抵抗を示したとも考えられる。
諏訪に逃げる建御名方神大国主と建御雷が向き合う稲佐の浜に、大きな岩を指先で弄びながら、国議りに反対する大国主の子、建御名方神(タケミナカタノカミ)がやってきた。建御名方は自分のほうが強いと、建御雷に力比べを申し出る。
まずは建御名方が建御雷の手をつかんで挑んだが、建御雷は腕を氷にかえ、さらに剣に変化させたため、建御名方は恐れをなして手を放す。次は建御雷の番となったが、相手の手をとるなり、いとも簡単に握りつぶしてしまった。
負けを悟った建御名方は逃走する。建御雷は長野県の諏訪湖まで追いつめ、建御名方を殺そうとした。建御名方は命乞いし、諏訪の地から一歩も出ないことを誓う。そして地上世界の献上も承諾した。
この建御名方を諏訪の地で祀るのが、分社数五千社を超える諏訪大社だ。国譲りでは敗れたが、平安時代に東国の武神として名を高め、鎌倉時代に入ると北条氏が後ろ盾となり、武士の守護神として各地に勧請され、全国的な神社になっていった。
大国主神の国識り~大国主神の承諾地上を献上した大国主
諏訪から出雲に帰ってきた建御雷(タケミカヅチ)は、再び大国主(オオクニヌシ)に国議りを迫る。「すでに事代主(コトシロヌシ)も建御名方(タケミナカタ)も、高天原に従うことを誓った。考えを聞こう」――。
ここに至り大国主は地上を献上すると約束。国譲りは成立し、天照(アマテラス)の子を地上に送る下地が整った。
国譲りの物語は、高天原が天皇家の祖先に地上世界の支配を命じ、また地上の最高神、大国主が国土を自ら捧げたことを記す。これは高天原の直系である天皇家が国を統治する、その正統性の根拠を表している。
さて、国譲りは神話であって史実ではないが、巨大国家でもない出雲がなぜ舞台に選ばれたのか。
日本書紀が大国主を、奈良の三輪山の神と同体とするように、大国主は出雲に留まらず、広く信仰される神だったようだ。その大国主に対し、神の上位性を主張するのが国議りで、大和から見て日が沈む方向にある出雲を黄泉国(よみのくに)に見立て、そこに追放し祀ったために、出雲を神話の舞台に選んだと考えられている。
大国主が出した国譲りの条件
大国主は国譲りを承諾する際に条件を出している。
「宮柱を太くして立て、大空にそびえる立派な神殿を建ててほしい。それがかなえられれば幽界に退き静かに暮らそう」
この説話は、大国主を祀る出雲大社の起源を物語る。
出雲大社の成立時期は不明だが、いつの時代からか勇壮な社殿が造られるようになった。平安時代には、奈良の東大寺大仏殿を超える高さの48メートルを誇ったという。近年の発掘調査では、鎌倉時代の巨大な宮柱が発見され、古代の伝承を裏付けるかのようだ。
その高層ぶりは国譲りの代償であり、無念のうちに譲った大国主の魂を鎮める目的があったのだろう。今の本殿は江戸期の造営だが、千木(ちぎ)まで約24メートルの高さがあり、全国の神社のなかでも群を抜く。
『いちばんやさしい 古事記の本』西東社
出雲大社と諏訪大社とは、深い繋がりがあったみたいですね。
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【出雲大社】新十津川分院
鳥居をくぐって、左手に駐車場があります。そこから1枚撮影しました。
本殿です。
近づいて撮影します。
社務所に向かう前にもう1枚。夕方に近づく風景。
「縁」とは、男女の縁に限りません。人生は縁の集合体だと思います。
うさぎのおみくじです。子どもが車内で落っことして汚れてしまいました。
かわいいでしょう?
本殿の横、社務所の前にはだいこく様が。
お隣は公園があります。軽い散策にちょうど良いです。
出雲大社新十津川分院はこちらです。
新十津川町には土地の気の強さを感じる
何がそう感じさせるかというと、何となく明るく落ち着く土地の感じがするからです。
理由は説明できませんが、本当に何となくです。
街は大きくないのですが、不思議な安定感があるような気がするのです。
町を見守る山はピンネシリ。標高1100メートル。昔の地図には「地勢根尻(ちせねしり)」とあります。「家の形をした山」の意味だったような…。
私は、平成15年9月に山頂まで登ったことがあります。
景色が素晴らしい山です。
大和には夫婦山があります。標高264メートルの低山ですが、麓では霊水を汲むことができ、人気があります。
チョロチョロとしか出ていないので、汲むには時間がかかります。また、蛇もよく出ます。この山には、昭和52年に私も登りました。
当時は「大和小学校」があって、夫婦山に登る行事があったみたいです。
その頃は、登山道もしっかりしていましたが、今はそうでもないと聞きます。
2つの山が夫婦のように並んでいますから、見ればすぐにわかる山です。
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夫婦山霊水
新十津川 夫婦山霊水
米どころ新十津川の北部に、まるでラクダのこぶがふたつ並んだような小山、夫婦山(264.1m)がある。その夫婦山の南麓に、夏でも水温3℃と冷水の湧出するところがある。この水は諸病に効験があると、古くから地域住民の間で密かに知られる湧水だ。
戦後の1951(昭和2)年、地域の有志たちが家内安全、五穀豊穣を願って士別市の霊水山不動院から不動尊の分身を受け、この水の湧出する場所に小さな詞を建てて安置した。これが「夫婦山霊水」の始まり。
その後、この霊水の効能が各地に広まり、遠方から参詣と取水に訪れるから人々が目立つようになった。1958には四国出身者の多い周辺地区の人々によって「新四国八十八ケ所」が開設され、88体の仏像のほか番外6体加えた計4体が安置されている。さらに1963年には地域住民を中心とした信者たちが浄財と労力を提供し、霊水を沸かす風呂場もある社務所兼用の「夫婦山憩いの家」を建てた。
夫婦山霊水は、取水ロ1本のみだが無料開放されており、誰でも気軽に取水できる。できれば不動尊にお参りしお賓銭を投ずるのが望ましいが、それは任意。ただし「夫婦山憩いの家」は信者と世話人の専用施設。ふだんは施錠されており、毎月8の付く日に担当の世話人が訪れ、清掃などの奉仕作業を行っている。
なお、毎年6月18日は「春のお山開き」、9月18日は「秋の山じまい」として例祭が催される。例祭は信者だけでなく、一般の人々の参加も可能。その儀式は、まるでかつての村落共同体の民間信仰を防徳とさせる興味深いもの。手づくりのお餅やお赤飯が振る舞われ、霊水風呂にも入浴できる。
『無料で汲める 北海道名水ガイド』(葛西麻衣子・本多政史)亜璃西社
2005年発行の書籍のため、現在も「春のお山開き」「秋の山じまい」などの儀式が継続されているかは不明です。
夫婦山の場所はこちらです。
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