激しいまでの情報化社会になりました。
頭の中で情報の整理を怠ると情報に振り回されて、ともすれば自分自身をさえ見失いがち…、そんな気がしています。
今こそ、考えることで思考の自立性を守り抜く心構えが必要だと感じます。
- 古典文法は記憶が大切
- 習って⇒覚えて⇒考えて
- 「薔薇」の文字が書けず息子に叱られた私
- 東大生はガリ勉?!
- 恐るべき記憶力を持つ友人
- エビングハウスの忘却曲線
- 記憶を定着する方法
- モンテーニュの言葉から
- 孔子の言葉から
古典文法は記憶が大切
古典文法を教えていると、
「こんなに覚えられない!」
と高校1年生のうちはボヤきます。
- 「る・らる・す・さす・しむ、、、」
- 「ず・ざら、ず・ざり、ず、ぬ・ざる、ね・ざれ、ざれ」
- 「て、て、つ、つる、つれ、てよ」
など、助動詞を暗唱してみせると「え~!?」と驚きます。
高校1年生も終わりに近づくと、意外に簡単に覚えられることがわかってきます。
それでも、「全然覚えられません」と嘆く生徒も少なくありません。
実際は、紙に書いたり、暗唱したり、、、、要するに「目」と「手」と「耳」と「口」を総動員すれば、記憶することは難しくないし、たいしたことを暗唱していたわけでないと気づいてくれるものです。
助動詞の種類と活用を記憶できたら、自信が付くようです。
そして、次の段階、助詞・敬語、そして単語へと発展していくのが普通のパターンでしょう。
某超有名進学高(灘高校など)では、古文単語を300語覚える本を2冊買う生徒がたくさんいると聞きました。
1冊目はボロボロになるかららしいです。
やはり、勉強は記憶することが大切だとわかります。
習って⇒覚えて⇒考えて
「知識偏重はよろしくない」との意見がかなり前から聞かれます。
覚えさせることが勉強ではないとの見解です。
でもですね、考えるには「材料」が必要なわけでして、材料の本質を理解するには「知識」が必要だと私は思います。
国語は「読んで考える勉強なので、知識の押しつけはよろしくない」とは、確かにごもっともな意見なのですが、ある程度の知識を教えないと、
「どうやって勉強したらいいのかわからない!」
と生徒は悩みます。
そのような生徒に、「この本のこの部分を暗記してごらん」と言うとホッとした表情を見せることが多いです。
考えることが得意でない生徒には、考える材料を段階に応じて示してあげることが大切ではないでしょうか。
理想論に走りすぎると、困惑するのは子どもたちです。
ただ「考えなさい」と言われたって、困ってしまいますよね。
「薔薇」の文字が書けず息子に叱られた私
どこで練習したのかわかりませんが、小学2年生の息子は「薔薇」が書けるのです。
恥ずかしながら私は書けませんでした。
「『バラ』と書けばいいじゃん!」
と思って練習したことも、気にしたこともありませんでした。
漢字にも相性があるようで、私は「缶」という簡単な漢字も書くのは苦手です。
「パパは『薔薇』も書けないんだ!」と何度も息子にからかわれました。
「薔薇」が書けることは息子の自慢のようで、放課後のお預かりでも自慢しているようです。
ついでに「家族で書けるのはボクだけ」とよけいなことも言っているみたいです(^_^)。
「パパは、国語の先生なのに書けない」というオマケまでくっつけているらしいです。
「パパもしっかり勉強しなさい!」と言われたこともあります。
時々、風呂場の鏡にも書いて自慢します。
とうとう私も練習しました。だから、私も今では書けます(^_^)。
記憶力が衰えても、何度も書けば覚えられました!
東大生はガリ勉?!
「東大生はガリ勉、、、」
これは偏見だと思います。
東大卒の友人には、柔道県大会優勝、東大現役合格、しかもわりとイケメン、、、と勉強もスポーツもバツグンの人が複数人います。
聞くと、勉強量はそれほど特別な量ではないのに、、、。
部活動にも時間を費やし、本も読んで、、、どちらも相当の時間を消費しないとこなせません。
京都大学も同様のことを感じます。
・・・東大・京大以外の大学は、「努力」か「才能」のどちらかが優れていれば合格に届くことは可能だが、東大と京大だけは、「努力」と「才能」の両方が必要ではないかと・・・(東大・京大卒の友人知人から感じること)
偏見だったらごめんなさい。しかし、素直にそう感じるのです。
才能だけでも合格できる人もきっといるでしょう。しかし、才能は目に見えないので私のような凡人には何とも断言できません。
恐るべき記憶力を持つ友人
彼は、教科書などを目にするとページ一面丸ごと頭に焼き付いてしまうと言います。
まるで写真を撮影したかのように…、と言います。
そして、「記憶には絶対の自信がある」と言い切ります。
北大卒の人なのですが、頭の回転も私などよりずっと速いです。
しかし、記憶の良さがイヤになることもあるとも彼は言います。
イヤな記憶がいつまでも消えない、、、イヤな場面や言葉をずっと覚えているので、若い頃は記憶力を恨めしく感じていたと言います。
それでも私はうらやましいと感じます。
- 「主(あるじ)ぶらぶら代数を解く」⇒代数=「algebra」
- 「あ、晩だ!と勉強捨てる」⇒捨てる=「abandon」
- 「いち早く伊藤博文、憲法発布」⇒1889年
などとゴロで愚直に暗記していたからです。
その友人と過去のエピソードを話すと、日にちまでほぼ正確に語ります。
「あの日に誰がこう言った」などは朝飯前に語るので、驚いてしまいます。
エビングハウスの忘却曲線
記憶といえば、「エビングハウスの忘却曲線」は有名ですよね。
グラフを書くのは苦手なので要点を書きますと、
人は学習後、
- 20分後に42%忘れる
- 1時間後に56%忘れる
- 1日後には74%忘れる
- 1週間後には77%忘れる
- 1か月後には79%忘れる
ということを示した曲線のことです。
だから、学習した内容を、
- 24時間以内に10分
- 1週間以内に5分
- 1か月以内に2~4分
復習することで記憶に定着しやすいと言われています。
「エビングハウスの忘却曲線」について、良い記事を見つけたので貼っておきます。
記憶を定着する方法
人の記憶は、ある法則に基づいて強く残ると言われており、その方法は大きく分けて2つあります。
- 繰り返しの記憶⇒同じ内容を何度も繰り返すことで記憶に定着する
- 強い印象の記憶⇒感情を伴う記憶やエピソードは記憶に定着しやすい。
衝撃は、強烈に記憶に残ります。
しかし、勉強するたびに衝撃を受けていたら心がつぶれてしまいます(^_^)。
「え!?その単語はそういう意味だったの!?ガーン!!」
だと勉強になりません。
さらに、説明を一度聞いただけで、即座に100パーセント理解できる人もいれば、100パーセント以上を理解する人も世の中にはたくさんいます。
天才恐るべし!です。
だから、才能だけで合格できる人も世の中にはいると思うのです。
「だけ」の程度が見えないので断言はできないですが、きっといるはずです。
モンテーニュの言葉から
「思索するという言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか思索したことはない」
書くことが考えることであり、書くことが考える有力な手段である旨を言っています。
幾多の名言を残した哲学者です。
孔子の言葉から
「学ンデ思ハザレバ則チ罔(くら)シ。思ウテ学バザレバ則チ殆(あやう)シ。」
講義を聴いたり、書物を読んだりすることは、外部から入ってくる知識をそのまま受け入れるだけで、なぜそうなのかということを静かに考えて納得するのでないと、まとまりがつかず、知識はあいまいになる。
そうかといって、外部から知識を受容する方面の努力を怠り、一人の思索にばかりふけっていると、独断に陥って危険である。
ということでしょう。
外部から入ってくる知識(情報)について、なぜそうなり、なぜそうであるかを考え、それが既に受容されている知識(情報)の中でどのように位置づけられるかを考えるとき、知識は全体として体系化され、必要に応じて、いかなる現実にも適応し、応用が可能になると孔子は言いたいのでしょう。
それが出来たときに、
「学ンデ思ヘバ則チ明ルシ」
ということになりましょう。
孔子の真意は、感覚を通して外部から入ってくる情報(「学ブ」もの)すべてについて、考えること(「思フ」こと)の重要性を指摘しているように思います。
17世紀後半に活躍したイギリスの哲学者ジョン・ロックも言っております。
「読書は単に知識の材料を提供するだけである。それを自分のものにするのは思索の力である。」
「知識の吸収 ⇒(発展)⇒ 思索の力」
を怠らないように、私も何歳になっても学びを深めたいと思います。
まとまりない話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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