元関脇の貴闘力さんが、YouTubeの『貴闘力部屋』で大相撲について様々な提言をしています。
一度視聴してみてください。
相撲の再生計画を目指して、闇の部分を余すところなく話していますので、私は大変興味深く視聴しております。
【四柱推命】元関脇貴闘力さん
乙日、秋生まれの「偏官格」
いかにも身旺の人に見えますが、何時に生まれていたとしても身弱の人です。
日干が弱いため内面の本質は、
- 人柄は好人物
- 心の中に迷いとか焦りが同居し、内部の矛盾が潜む
では、身弱の貴闘力さんが、なぜあれほどの闘志あふれる相撲を取り、このたび身を張って相撲再生計画に乗り出すなどの気概を発揮するのでしょう。
それは偏官格の、「義理人情に厚く親分肌で、自分の心を律して他人に奉仕する」性格のためです。
ギャンブルはしましたが、処世として人を裏切ることはしない性格です。
琴光喜さんや弟子を廃業させたくない思いは、相当強かったはずです。
身弱の命式で気力を振り絞って生きてきたわけですから、精神消耗度は高いと想像します。
いつまでも健康元気は続かないので、心身の健康管理には十分に注意してもらいたいと願います。
身弱で偏財が太過する偏官格ですので、弟子や後輩への思いやりは深いですが、それが仇になって返ってくることが懸念されます。
また、真面目な正官や正財は命式になく、個性的な偏官や偏財ばかりなのも、いかにも貴闘力さんらしいです。
秘密主義でもないし、打算的でもありません。また優等生タイプともなりません。
欲をいえば、印星が欲しかったですね。時柱にあれば良いのですが。もしなければ、親や目上の人からの恩恵は受けにくいとなります。
【四柱推命】貴闘力さんの性格分析
◇見た目とホンネ
- 見た目は、抜け目なくちゃっかりしていて、愛想も良いですが、やや軽率なところがあって、虚栄心も強いです。
- ホンネは、内弁慶で頑固なところがあって気むずかしく、見た目と違います。
◇性格の本質
- 本質として備わっている図太さ、思い切りのよさ、実行力、決断力などは失われやすく、神経質になりやすい。
- 無愛想だが、必要以上に律儀な面があったり、偏屈や頑固さが目立つ。
- ときには、人も驚くほどの大胆な行動をとるようなこともある。
- プライドが傷つけられると、立腹しやすい。
- 自分の気に入った人には、親分肌で面倒見がいい。
- 仕事をしっかり仕上げるタイプで、要領だけの人間を嫌う。
- 勘が鋭く人の心を読むのに長け、理論を軽んじる。
- やや乱暴な言い方をし、鼻っ柱が強く、ライバル意識が強い。
家庭環境を診断すると、年上に食神はあるが、日干が相当身弱であるため、たとえ家庭が恵まれていたとしても、
- 家運が衰えやすい
- 祖先や父母の遺徳や恩愛が受けられにくい
- 幼少時時生活上の苦労なども多い
と思われます。
月支が正官または偏官となっているため、子どもの性質あるいは運勢の好悪は別として、縁は厚いと判断できます。
【四柱推命】元関脇貴闘力さん「今後の運気」
「大運」第6運 48~57歳【甲 辰】劫財運 東方木運 羊刃 空亡
この10年間は、
- 強気になりやすいですが、良好に作用する運気となっています。
- 夢や希望に向かって行動的となり、成功につながりやすい運気です。
- 大運地支と月支の支合も平穏無事な運気を示します。
2020年【 53 歳 】 歳運【庚 子】正官運
この1年間は、命式の中の強い財星から過生扶されているため、良好な運気にはなりにくく、心理的負担が大きくなると予測されます。
しかし、歳運よりも大運の効果が大きいので、それほど気にする必要はなく、吉に傾く1年だといえます。
日干と運干が干合するため、事業その他社会生活上の合併・共同の件が持ち上がりやすい運気です。
ユーチューブ「貴闘力部屋」もこのような事情があって始めたのではないでしょうか。
視聴をオススメします!
2021年【 54 歳 】 歳運【辛 丑】偏官運
この1年間は、向かい風が吹きそうです。混乱の発生が予測されます。
特に留意すべきは、歳運と日柱が天戦地冲になることです。
- 精神不安、健康不安、家庭不安が起きやすい
- 事故や病気、怪我、詐欺などにあいやすいので、特に注意が必要
- 何事も静観するのが一番で、動けば破れをきたしやすい
生日の干支と歳運の干支が天戦地冲になっているため、注意が必要です。
ただ、歳運地支と命式内の地支が半会して、歳運地支と日支との刑冲が若干解消されているのが救いです。
歳運地支と命式内の地支が半会もあるので、何とか乗り切ってくれそうに思います。
かつての元大鳴戸親方の出来事を思い出してしまう…
大相撲の痛い部分を語るとなると、元大鳴戸親方と橋本成一郎さんが、同一の日に同一の病院で、同じ原因で亡くなった出来事を思い出さずにはいられません。
次の記事が詳しいです。当時は衝撃的な出来事でした。
あの双葉山(時津風理事長)に八百長撲滅を迫った玉の海梅吉さん
玉の海梅吉さんは、双葉山と同じ時代に「怪力玉の海」として活躍した人です。
二所ノ関親方として力道山の師匠でもありました。
角界を退いたのちはNHK相撲中継で、長く辛口の相撲愛にあふれる解説を聞かせてくれました。
相撲ファンとしては「八百長」という臭いものは見たくない、認めたくない思いがあると思います。私も以前はそうでした。
以下に玉の海梅吉さんの著書を抜粋します。
「三バカ」ーわが悔恨の一番
「八百長」という言葉がある。
残念なことだが、発祥は相撲界だとされている。なんでも、明治の初めころ、今で言えば相撲協会に当たる相撲会所に出入りしていた八百屋の長兵衛という人、相撲茶屋も経営していて、時の権勢家である七代目伊勢ノ海とよく碁を囲み、わざと負けていたということをあとで知った伊勢ノ海が、
「この八百長め!」
と怒ったことが語源だと言われている。
現に「広辞苑」あたりを引いてみても、はっきりと、
「…一方の力士が前もって負ける約束をしておいて、土俵上でうわべだけの勝負を争うこと。なれあい勝負。内々示し合わせておいて、なれあいをすること」
とある。真剣に、真面目に土俵に生きる力士にとっては、実に不本意、不愉快な言葉であり、私自身相撲出身者として、決して快いものではない。
この八百長、現役時代、私が肌で感じていたことは、今、多くの人たちが感じるニュアンスとはちょっと異っていたように思う。
どちらかと言えば、
「やるバカに、やらぬバカ、これを口にするやつはさらにバカ」
ということで、”悪”というイメージよりも、”愚者”という、軽蔑的なとらえ方だったよう
に思う。「公認相撲規則」の中に「故意による無気力相撲懲罰規定」というのがある。いわゆる八百長の防止規定で、概要は相撲競技監察委員会を設けて本場所の相撲を常時監察し、故意による無気力相撲と思われる相撲があった場合は審判部長と協議し、故意による無気力相撲の結論を出した場合は理事会に提出、理事会決議をもって懲罰を決定する。故意に無気力相撲をした力士は除名、引退勧告、出場停止、減俸、けん責の処分をうけ、懲罰を受けた力士の師匠は連帯してその責任を負い、また関連したものは力士と同等の懲罰を受けるものとする、といったものだ。
「八百長」を「故資による無気力相撲」と言い変えたところでその実態には変わりはないし、いかに巧みにわたり合ったところで、見る者が見れば、はっきりと目に映るものである。恥かしい話だが、私自身にも、生涯に、たった一番ではあるのだが、侮恨の残る土俵があった。
「なぜ、あんな愚かなことをしたのだろう」
悔めば悔むほど腹立たしい思い出であり、言い訳がましくなるかもしれないが、その一番から得た体験、経験は、身にしみた教訓として、その後の私の生き方、考え方に大きな影響を与えてくれたことも確かである。あの一番は、たしか昭和十四年の一月場所十一日目ではなかったかと思う。
当時、優勝といえばほとんど双葉山で、他の力士が賜杯を手にするということはまずなかった。
ところがたまたまその場所――関係者の名は伏せるべきであろうか……いや、既に四十年も前の出来事であり、思い切ってはっきり、実名で登場してもらったほうがいいかもしれない。
生存するのは私だけ。あえて生き恥をさらし、後進への戒め、これからの相撲界の発展と土俵の充実をねがうつもりで筆を進めていこう。その日、私の対戦相手は、西前頭十七放目の出羽湊であった。彼は全戦全勝、私は西の小結で七勝三敗。当時は十三日制であったから、すでに私は勝ち越していた。
あと三日の星いかんでは、出羽湊の優勝も夢ではなかった。というのは常勝・双葉山は不振ですでに四敗していたのである。
連戦連勝土つかず、五場所連続優勝を遂げていた双葉山だったが、その場所四日目、安芸ノ海に七十連勝を阻まれ、五日目は両国に、六日目は鹿島洋に、そして九日目には私にも敗れて、すでに優勝戦線からは脱落していた。
また、西の横綱武蔵山、東の張出横綱男女ノ川、大関前田山、鏡岩、関脇名寄岩、綾昇、小結羽黒山、そして私、前頭筆頭の笠置山、磐石など、上位陣も星のつぶし合いで、上位と顔の合わない出羽湊が、ただ一人、無敗で十日間を乗り切っていたのである。
私に勝てば、出羽湊の優勝は確定的になる――。
立浪部屋に三年(当時は年二場所制だった)も優勝をさらわれっ放しの出羽一門としては、
ここは、是が非でも賜杯を奪還したいのは当然だろう。――十日目の夜であった。一人の使者が私の許に訪ねてきた。使者は笠置山であった。
「明日のことだが……」
彼は切り出しにくそうに一回言葉を切ると、
「…なんとかならんだろうか」
と言った。
笠置山は出羽湊と同じ出羽海部屋に所属していた。早稲田大学出身のインテリ力士で、現役時代から相撲評論、随筆、小説などを書き、引退後は年寄秀ノ山として、相撲協会のスポークスマンを勤め、双葉山の時津風理事長を補佐した逸材でもある。私とは、部屋、一門は異にしたが、個人的にも、気も心も許し合った親友であった。
「ああ、いいよ」
と、私は答えた。その時は、余り気にしなかったのだが、この何気ない返事一つが、私の生涯の悔いになろうとは……。本当に軽卒であった。朋友と連れ立ち、なにかその辺の一杯飲み屋に入ろうというとき、
「おい、今日は持ち合わせがないんだ。ちょっと立て替えておいてくれよ」
「ああ、いいよいいよ」
そんな軽い気持で、私はその申し入れを承諾してしまったのである。
「この機を逸したら、出羽湊にはもう、二度とチャンスは巡ってこないだろう」
そんな同情があったからだ。
また、ちょっと男気を見せるというか、この一番、自分が勝ちを譲ってさえやれば、彼は”男”になれるのだ、という気持もあったことは事実である。さて当日――。
支度部屋から土俵に向かう私の気持は、平素と違って気楽だった。
「どうせ、もう話はついているんだし、向こうが内掛けにでもきたら、尻もちでもつけばいいや」
そんな気分で控えに入った。
ところが、控えに座り、館内を見回した途端、全身から血が引いていくような悔恨に襲われたのである。
「この鉄傘下、詰めかけた一万余の大観衆を前に今この私は、この人たちを裏切ろうとしているのだ……」
そう気付いたとき、居たたまれなかった。気のせいだろうか、ファンの声援、歓声が、この日ばかりは、私をなじる喚声に聞こえた。当時は制限時間七分であった。
土俵の上には、これから取組む力士がいる。控えの横には、次に取組む力士が控えている。
私が土俵に上がるまでには、まだ十数分ある。
腕を組んで目をつぶる。いろいろな思い出が脳裡をかけめぐる。
――新入幕(昭和十年一月場所)して、郷里·大村(長崎県)へ凱旋したとき、町中こぞって温かく迎えてくれたこと……。
――「町中の竹がなくなってしまったぞ、この歓迎ののぼりは七百五十本も立っているんだ」などと、幼なじみの連中が肩をたたき、手をにぎって喜んでくれたこと…。まぶたに、私のシコ名を染め抜いたのぼりが、大漁旗のように見渡す限りなびいて消えないのである。
中でも胸が締め付けられたのは、小学校(現在の大村西小学校)の児童たちが、先生と一緒に近くの神社に必勝の祈願をしてくれていること、毎場所前、作文の時間に、全員で激励の手紙を書いてくれて、束のようにして送ってくれていることである。
「そういう、純な子供たちの真心を、今、自分は踏みにじろうとしているのだ」
そう思うとやりきれなかった。
場所前、そして場所中、大村公園にある八大龍王へ、毎朝、祈願に行っているという父の後ろ姿も目に浮かんだ。勝負は、あっ気なく終わった。
出羽湊は全勝。私は四敗になった。
負けても、後味のよい、爽快な相撲もあれば、勝っても心晴れない相撲もある。自分の全力を尽くし切り、十分にわたり合って、それで力負け、技負けしたときは、悔しさは残っても修業不足、研究不足の自省と、次場所こそという意欲が燃え上がる。作戦的な立ち合いや、裏をかかれてバッタリと土をつけられた負け方とは違って、実にさっぱりとしたものである。
だが、この日の相撲は全く違った。
だれにも気づかれまい、そして巧みに負けなければいけないとなると、不器用な私に、そんな演技などできようはずがない。見る人が見たら、おそらく目をそむけたくなるような、無様極まりない相撲であったに相違ない。現に、私自身、土俵を経験、さらに長い相撲放送の解説者生活などをしてくると、見えないものがよく見えるようになり、証拠そのものは直接示せないまでも、はっきりその影をとらえられるものだということを知ったからである。
最近、取り壊されてしまったが、あの両国国技館から二所ノ関部屋までは、ざっと二キロくらいはあるだろうか。いつもと変わらぬ道のり、町並が、その日ばかりは遠く、また雰囲気まで違うように見えた。
勝った日は勝った日で、また負けた日は負けた日なりに、町の人たちが、
「よかったぞ、明日も頑張れよ」
そんな感じで温かく迎え、接してくれるのだが、なぜかその日は、冷たい目で見据え、私の姿を見かけるや否や、店を閉め、そそくさと中に消えてしまうように見えて仕方なかった。
そして、部屋に戻っても、若い者たちの顔さえも、まともに見ることもできなかった。
「なんで、こんな分かり切っていることをしてしまったのだろう」
という俺いと
「もう二度と絶対、どんなことがあってもこのようなことは繰り返さないぞ」
ひとり個室で、私は心に誓った。
〈中略〉
土俵の中で、「情」が相撲を取ったら、これはもう相撲ではないし、到底、国技と呼ぶことは出来まい。まして、地位、金銭などがからんだら、これはもう言語道断だ。
私も七十を過ぎ、これまで歩んできた道を振り返るとき、番付の一枚や二枚にこだわって、もし言いなりにあの申し出を受け入れてしまっていたら、私は人間としても、大きな恥を抱えながら、また自分の良心に恥じながら生きて来なければならなかったろう。
まして、公共放送であるNHKの、相撲放送の解説者という立場で、私は二十八年もの間、マイクの前に座ってきた。過去に、もしあの過ちを再度繰り返していたら、ああはっきりと、苦言、提言をロにすることも出来なかったと思う。人はその人生という道程の中に、避けて通らねばならぬ道を自ら作ってはいけないと思う。
幸せなどと呼ばれるものは、そんな、避けて通らねばならぬところに、決して花も実もつかぬものだと思うからだ。昨今、いろいろと一部マスコミが、土俵上の不正について取り上げている問題について、私はこんなふうに思う。
一対一の土後の上で、一方はどうしても勝ちが欲しい、もう一方は勝敗一つくらいはどうでもいいというようなとき、もしそこに甘い誘いでもあったら、どんなに厳しい規定を設けて絶対的に防ぐということはできないであろう。相撲協会の幹部は、このキャンペーンを無視した。それも一つの見識である。だが、その結果は、少なくともはた目には、避けているようにしか映らなかった。これでは問題の解決にはならないし、私もわきから見ていて、歯がゆくてならない。
過去は過去として、今後は絶対に、疑惑の目で見られるような相撲は取らせない、厳重に監視、監督をしていくという姿勢を、はっきり見せる時期にもう来ているような気がする。
「絶対に入百長などない」
と、ただ“突っ張る"だけでは、かえって不正をかばい、真剣に土俵に取り組んでいる力士たちを、誤った道に迷い込ませはしないか。
私は相撲解説から離れ、今、一ファンとして、相撲を楽しむかたわら、相撲を知る一人として、一ころ目に余った無気力な相撲がなければよいが、と土俵を憂えている。私は一回の過ちを犯した。だが、二度と繰り返さなかった
自分が勝ちを受けたほうでなく、与えた側にあったからそれができた。自分が一度でも頭を下げていたら、
「自分はどうだったのだ」
と、過去を楯に、ことある毎に嘲笑され、後ろ指を差されていたであろう。
悪の道が泥沼だと言われ、底がないというのは、繰り返せば繰り返すほどのっぴきならなくなって、深みにはまり、遂には"生命"を失うからだ。
私の場合、たったの一度だったとは言え、過ちを犯したことは事実であり、一回だったからといって、許されることでないことも承知している。
ただ、自分自身、せめてもの救いというか、誇りといえば、自分が得るものがないときにやり、確かなものが得られるというときに、はっきりと拒絶して、それを繰り返さなかったことである。目先の栄光、私利私欲に走り、見るべき者が見れば読み取れるような相撲を力士は取るべきではない。一生、拭い難い侮いがそこに残る。
私自身、体験しているからこそはっきりと、自らの三バカを承知の上で書き残すのだ。
相撲協会が勇気をもって、土俵の厳正を断行するキッカケに、との一文がいくらかでも役立ってくれれば、と私は思う。
『これが大相撲だ 生きて、みつめて』(玉の海梅吉)潮文社
※「相撲協会の幹部は、このキャンペーンを無視した」は、昭和57年にNHKの解説者を勇退した後、当時の春日野理事長と二子山事業部長に呼びかけて、「八百長を撲滅してくれ」と迫った時期のことを指すと思われます。当時の玉の海梅吉さんは、真剣に撲滅キャンペーンを打ち出そうと模索していました。
玉の海梅吉さんは、神風正一さんと並んで大好きな解説者でした。
「見たくない物に蓋をしない」という姿勢はどこの世界においても必要な心と感じ、生意気ながら記事にさせていただきました。
私も、かつては「八百長などない」と信じ込もうとしていたのですが、相撲関係の数人の知己から直接の体験談を聞くと、実際には「あった」と言わざるを得ません。
八百長は一時期よりかなり減っていると聞き及びますが…。
いつまでもファンから愛され、熱戦を展開し、将来に希望を抱く若者が青春をかけるにふさわしい大相撲であってもらいたいと一ファンとして願っています。
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