
人は、本当は安心して暮らしたい生き物です。
誰かを疑いながら生きたい人なんて、ほとんどいません。
「これくらい大丈夫だろう」
「まさか、そんなことはされないだろう」
そんな小さな安心を積み重ねながら、人は毎日を生きています。
でも人生には、時々その安心が静かに壊れてしまう瞬間があります。
しかも、それは映画のような大事件ではありません。
誰かの少し無遠慮な行動。
境界線を越えてくる人。
「それくらい別にいいだろう」という感覚。
そういう小さな出来事が積み重なることで、人は少しずつ警戒を覚えていくのかもしれません。
この記事では、私自身が経験した出来事を通して、「人はなぜ少しずつ警戒しながら生きるようになるのか」について考えてみたいと思います。
「どうせ言っても無駄」という空気
北海道の教員住宅は、「一棟4戸」といって、1階に2世帯、2階に2世帯が住む形が多くあります。
建物の周囲には空き地があり、その向こうには一般住宅が並んでいました。
冬になると、一部の近所の方が、除雪機でその空き地へ雪を飛ばしてくることがありました。
すると、空き地には大きな雪山ができます。
私は2階に住んでいたため、そこまで大きな実害はありませんでした。
でも、1階に住んでいた同僚の部屋へ遊びに行った時、部屋の暗さに驚いたのです。
窓の外に高い雪山ができ、昼でも部屋が薄暗くなっていました。
ストーブの音だけが静かに響く冬の部屋でした。
「これ、かなり大変じゃないですか?」
そう聞くと、先輩は少し苦笑いしながら言いました。
「昔、文句を言いに行った人がいたらしいけど、全然ダメだったみたい」
そして、
「どうせ言っても無駄なんだよ」
と続けました。
その言葉が、妙に心に残っています。
人は理不尽な出来事そのものより、
「どうせ何も変わらない」
という空気に、少しずつ疲れていくのかもしれません。
本当は嫌なのに、
本当は困っているのに、
「関わると面倒」
「言っても無駄」
「我慢した方が早い」
そうやって、人は少しずつ諦め方を覚えていくのだと思います。
安心していた物が、ある日突然消えていた
これは私自身の話です。
ある時、部屋の整理をするために、雑誌を段ボールへ入れて玄関先に置いていました。
「あとで整理しよう」
そのくらいの軽い感覚でした。
建物の中ですし、まさか誰かが持っていくとは思っていなかったのです。
でも数日後、段ボールごと跡形もなく消えていました。
最初は驚きました。
ただ、それ以上に残ったのは、
「ああ、そういうことも起きるのか……」
という静かな感覚でした。
怒りというより、安心感が崩れる感じに近かった気がします。
その夜、一人で部屋に戻った時のことを覚えています。
外はもう暗く、北海道の冬特有の静けさがありました。
暖房の音だけが響く部屋で、私はしばらく玄関を見つめていました。
「普通はそんなことしないだろう」
どこかで、そう思って生きていたのです。
でも、人間社会には時々、こちらの“普通”が通じないことがあります。
もちろん、大半の人はそんなことをしません。
でも、一度こういう経験をすると、人は少しずつ警戒を覚えるようになります。
「置きっぱなしにしない」
「鍵を確認する」
「油断しない」
そんな小さな防御を増やしながら、人は生きていくようになるのです。
人は、ずっと警戒し続けることもできない
ところが私は、その後も同じような失敗を繰り返しました。
物置の中から冬タイヤが消えたこともあります。
さらに、熱帯魚用の水槽セットやろ過装置までなくなったこともありました。
そのたびに、
「また油断した」
「自分は何を学んでいるんだろう」
と落ち込みました。
でも今振り返ると、人はそんなに簡単に“警戒モード”のまま生き続けられないのだと思います。
ずっと疑い続ける人生は、疲れるからです。
誰かを疑い、
鍵を気にし、
警戒ばかりして生きるのは、心が休まりません。
仕事を終えて帰宅した夜くらい、少し気を抜きたくなる。
疲れた頭で、ストーブの前に座り、スマホをぼんやり見ながら、
「まあ、大丈夫だろう」
と思いたくなる。
人はいつも完璧には生きられません。
だからまた少し安心しようとしてしまう。
「今度は大丈夫だろう」
「さすがにもう起きないだろう」
そう思いたくなる。
それは甘さというより、人が安心を求める生き物だからなのかもしれません。
人は、「油断した自分」を責めてしまう
こういう出来事のあと、人は加害者だけではなく、
「油断した自分」
も責めるようになります。
「もっと気をつければよかった」
「なんで置いてしまったんだろう」
「学習していないじゃないか」
そんなふうに、自分を責め続けてしまうのです。
夜、一人になると、そういう考えは何度も頭を回ります。
布団に入っても、
スマホを見ながら、
「またやってしまった」
と、小さな自己嫌悪が残る。
でも、本当は、安心したかっただけなのかもしれません。
人を疑いながら生きたくなかった。
「普通に置いていても大丈夫」
「そんなことする人はいない」
そう信じたかっただけ。
だからこそ、裏切られた時、人は深く疲れてしまうのだと思います。
人間社会は、時々少しだけ怖い
生きていると、
- 境界線を越えてくる人
- 人の善意を利用する人
- 理不尽を押し通そうとする人
に出会うことがあります。
そして、そのたびに少しずつ、
「世の中は安心できない」
という感覚が積み重なっていきます。
でも、本当に苦しいのは、
「完全には人を疑い切れないこと」
なのかもしれません。
人は、本当は信じたいのです。
安心したいのです。
だからまた誰かを信じ、
また少し油断し、
また傷つくこともある。
人生とは、その繰り返しなのかもしれません。
▶ 人は「安心できる場所」を探しながら生きている
疲れている時ほど、人は「少し安心できる場所」を求めます。
でも、安心したかっただけなのに、傷ついてしまうこともあります。
「人はなぜ安心感を求めるのか」を、静かに考えたい方は、こちらの記事もどうぞ。
まとめ
人は、本当は安心して暮らしたい生き物です。
でも人生には、その安心が静かに壊れてしまう瞬間があります。
すると人は、少しずつ警戒を覚えるようになります。
それでも完全には疑い切れず、また誰かを信じようとしてしまう。
だからまた傷つくこともある。
でも、それは弱いからではありません。
人が、「安心したい」と願いながら生きているからなのだと思います。
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