高校3年生の担任をしていた頃の女子生徒の話です。
温厚なごく普通の女子生徒がでしたが、3年生になり急に休みがちになりました。
理由は、「授業中に周囲から私の悪口を言う声が聞こえる。教室に居たくない。」でした。
- 後ろの座席の方から小さなささやき声が聞こえる。私の話をしている…。
- 席替えをしてもやはり聞こえるささやき声
- 誰も何も言っていないのに…
- A子さんの欠席日数が増え始めて
- 最後のお別れの日、おばあちゃんの涙とA子さんの小さなお辞儀
- 通信制の高等学校への転学を勧めたが
- 半年後、明るい声の電話が学校に
- 20年ぶりの懐かしい対面と名付けを頼まれて
- 今後の運勢と起こりうる出来事を占ってから当時の回想に
- あの声は何だったのか?
「思い当たるふしはあるの?誰かとケンカしたとか、悪口を言われる原因に心当たりはある?」と聞いてみても、答えは、
「ないです」。
この話は、今は元気に一児の母親をしている本人から許可をもらっての書き下ろしです。
後ろの座席の方から小さなささやき声が聞こえる。私の話をしている…。
その女子生徒をA子さんにしておきます。
私はすぐにA子さんの座席の周辺、特に後部座席には誰が座っているのかを確認しました。
移動教室の座席も確認しましたが、意地悪や悪ふざけをしそうな生徒は見当たりませんでした。
各教科担任にも聞いてみましたが、皆一様に授業中に何かをつぶやく生徒の存在は思い当たらないと言いました。
疲れや寝不足による気のせいか、それとも被害妄想か?
など原因を考えてみましたが結論は出ません。
やむなく、数日間様子をみることにしました。
そして、機会を見て早めに席替えをすることにしました。
席替えをしてもやはり聞こえるささやき声
「これまでにもこういうことはあった?中学生や小学生の頃も含めて。」と聞きましたが、
「ありません。こんなこと本当にここ最近です。」
と答えます。
「男子?女子?どっちの声?」と聞くと、
「両方です。誰の声なのかは小さなささやき声なのでわかりません。」
と答えます。
そして、毎日聞こえるらしいのです。
時間はまちまちで、聞こえない授業もあると言います。
「聞こえる、聞こえないに科目の違いはあるの?」
と尋ねると、
「科目や先生は全然関係ないです。」
と言います。
さて、こうなると席替えをしてみるのが一番の方法です。
クラスの生徒には別の理由をこじつけて了解をもらい、早めの席替えを決行することにしました。
席替えは、たいていの生徒は嫌いではないため、すんなり実行されることになりました。
目の悪い生徒以外は、公平なくじ引きで決めます。
「何か理由をつけて、一番後ろの座席に座らせてあげるよ。」
と言いましたが、それには強く拒否をしました。
席替えにおいて、一番後ろの座席は人気の場所です。
人気の場所を指定されて座ることはイヤだと言うのです。
例えば、足を骨折して松葉杖を使う生徒は便宜上一番後ろの座席に座らせることはあります。
そういう話もしてみましたが、やはりハッキリした理由もないし、声が聞こえるなんて皆に知られたくないしと言うので、普通にくじ引きに参加させることにしました。
幸い後ろから3番目の座席を引いてくれました。
さらにまた、偶然にも彼女の周りは信頼できる生徒ばかりになりました。
ラッキーが重なって救われたと思って私はホッとしたのですが、放課後彼女に聞いてみると、
「まだ聞こえます。」
と言うのです。
誰も何も言っていないのに…
その状態が2日続いたので、彼女の後ろの座席に座っているB子さんにこっそり聞いてみました。
「君の座席の周囲の人で、授業中に独り言を言ったり、悪口をつぶやいたりしている人はいる?」
B子さんは、1年生から担任していて私が心から信頼できる生徒の一人でした。
B子さんは、
「え?何も聞こえませんよ。」
と答えました。
A子さんにそのことを伝えました。
すると、
「私もそんなことをする人が後ろにいないと思うので、自分でも変だなと思っているんです。」
と言いました。
「私がおかしいのかも知れません。」
とも。
そして不安そうな顔になるのでした。
不思議なことにA子さんに、
「どんな悪口が聞こえるの?」
と尋ねても、
「よく聞き取れないくらいの小声だからわかりません。でも、自分の悪口なのはわかるんです。」
と言います。
今度は私が教室の後ろにパイプ椅子を持参して座ることにしました。
クラスの生徒への口実は授業研究ということにしました。
1日に何時間か座りましたが、私には何も聞こえませんでした。
そして、私が座っている時間帯はA子さんも何も聞こえなかったと言います。
これでいよいよ方策がなくなっていくのでした。
A子さんの欠席日数が増え始めて
学校に来る日が徐々に減ってきました。
家庭への電話連絡では必ずおばあちゃんが出ました。
電話では限界があるので家庭訪問にも何度か行きました。
夕方訪問しても、夜に行っても、いつもおばあちゃんとA子さんの2人が私を待っていました。
毎回A子さんは、はにかみを含んだ笑顔で私を迎えてくれました。
おばあちゃんは、
「いつも申し訳ありません。何とか学校に行って欲しいのですが、こればかりは本人が…。」
といつも丁寧に接してくださいました。
このようなケースでは、たいがいの家庭で、
「学校で何かありましたか?」
「本人が行きにくい事情でもあるのでしょうか?」
と聞いてくるものなのですが、ほとんど聞かれませんでした。
いつも、「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしています。」と穏やかに接してくださるおばあちゃんでした。
優しそうなおばあちゃんの顔を見ると、「何とかしてあげたい。」という気持ちが私に強く募りました。
「家では声は聞こえない。」
と言います。
おばあちゃんは、
「病院に行ってみようと言っているんですが、本人がイヤがるんです。」
と困った顔をします。
私もA子さんに、「おばあちゃんもこのように言ってくださっているし、一度病院で診てもらういいと思うよ。」
と少し強めに勧めました。
気持ちはわかるのです。
心療内科を受診することは、初めは勇気が必要で、抵抗があるあるということを。
最後のお別れの日、おばあちゃんの涙とA子さんの小さなお辞儀
環境調査書を見ると両親が揃っている家庭です。
しかし、最後まで一度もお目にかかることはありませんでした。
いつもいつも、おばあちゃんと2人で私を待っていて、最後の家庭訪問の日も、おばあちゃんとA子さんの2人だけが家に居ました。
最後の日の玄関での別れ際に、おばあちゃんは私の手を握り、
「ずっと担任してくださっていたんですってね。ありがとうございました。」
と涙目でお礼を言うのです。
私も目頭が熱くなりました。
おばあちゃんの後ろに目をやると、A子さんもまた涙目で、ちょこんと私に向かって頭を下げてくれていました。
A子さんは、1年生の頃からずっと担任していました。
口数は多くなく、穏やかな子でした。
清掃や学校行事など、やるべきことにはいつも責任を持って取り組む好感が持てる生徒の一人でした。
それがまさか、3年生になってから急にこのようなことから自ら退学の道を選ぶとは想像もしていませんでした。
通信制の高等学校への転学を勧めたが
せっかく3年生に進級しているのですから、このようなケースでは、通信制の高等学校に転学するパターンが圧倒的に多いのです。
なぜなら、1、2年生分の単位は取得しているので、卒業に不足している科目だけ単位を習得すれば卒業認定資格が得られるからです。
私は転学を勧めてみました。
しかし、私立に転学した場合は授業料などの費用が安くありません。
そのため、家庭の経済事情によっては、強く勧められない場合もあります。
私は最後まで、Aさんの後ろに両親の影を感じることがないままお別れの日を迎えたので、経済的に楽ではないことを何となく感じてはいました。
Aさんは、あっさりと退学を決意しました。
おばあちゃんの涙を見た最後の日は、Aさんが退学届を自宅で書いた日だったのです。
Aさんは、「退学後はすぐに働きたい」と言いました。
半年後、明るい声の電話が学校に
突然の電話でした。
退学した生徒が、学校に電話をくれることなどめったにありません。
明るい声でした。
働いていて楽しいというのです。
ここには書きませんが、ある健康関係の会社で働いていると言っていました。
私は、幸せに暮らしていてくれて良かったと安心しました。
退学後は、例の不思議な声は一切聞こえなくなったそうです。
それから今日に至るまで、年に1度くらいのペースで近況を報告してくれています。
当時の私は、まだ紫微斗数など使いこなせず、四柱推命も実践的なレベルには達していませんでした。
現在の私なら、彼女の状況を命盤などから知ることができたと思います。
もっと的確な展望を伝え、前向きなアドバイスを彼女にしてあげられたはずです。
それが心残りです。卒業はさせてあげたかった。その思いは今も残っています。
20年ぶりの懐かしい対面と名付けを頼まれて
令和元年の夏、およそ20年ぶりに彼女と対面しました。
冬には子どもが産まれるのでA子さんと旦那さんの今後を占って欲しいと言われたのです。
喫茶店で待ち合わせて懐かしく語り合いました。
子どもに名前を付けて欲しいと頼まれたのですが、名前は親からの最初の贈り物だから、自分で付けてあげるのが一番良いことを伝えました。
「名付けにどうしても自信がないなら、入れて欲しい一文字と、どんな子になって欲しいかを言ってくれたら、いくつかの候補を出すよ」
と言いました。
最後に選択するのは親であるべきです。
また、最後は自分が名前を決めたと思ってもらいたかったからです。
旦那さんと二人で話し合って決めてごらんと私は言いました。
しかし、男の子ならA子さんが名付け、女の子なら旦那さんが名付けると決めてあるらしく、すでに男の子とわかっている時期だったので、彼女の担当になっていました。
それに年齢が高い出産のため、おそらく一人っ子になるので最高の名前にしてあげたいのだとも言っていました。
今後の運勢と起こりうる出来事を占ってから当時の回想に
彼女と旦那さんの生年月日と生時を聞いて紫微斗数の命盤を作ってみました。
そして過去と未来とを見てみました。
現在の課題と今後の状況、それから気をつけるべきことや、旦那さんの転職のこともみました。
ついでに過去もみました。
振り返ると、高校3年生のあの頃は、父母宮が最悪の時期でそれが彼女の福徳宮に強く影響を与えていたことがわかりました。
彼女は父母の関係が原因で精神的に追い詰められていたのです。
そのことを彼女に伝えると、次のように語ってくれました。
高校2年の夏頃から、お金のことで父母が険悪になる日が続き、夫婦喧嘩が絶えなくなったそうです。
そのため、父親は名古屋に長期の出稼ぎに出てしまい、母親は少しでも収入の多い夜の仕事に従事することになったと言うのです。
母親がいない日には、近所に住む母方のおばあちゃんが家に来て一緒にいてくれていたそうです。
お母さんは家に居ても昼間は疲れて寝ていることが多く、それゆえ学校からの電話にはおばあちゃんが出ていたとのこと。
そして、掃除や洗濯もしてくれていたと言いました。
彼女自身も、だんだん家の経済面が気になるようになり、1年生の頃は大学への進学を希望していたのですが、両親の口論を耳にするようになってからは、自分は本当に進学しても良いのかと悩み始めたそうです。
お父さんは、1年生の冬に転職していたそうです。
その転職先が良くなかったと言っていました。
彼女は、早く自分も働かないといけないのだと考えるようになり、学校で授業を受けることに意味が感じられなくなってしまったらしいのです。
自分が早く働けば、経済面の負担も減って、両親はまた仲良くなってくれると淡い期待をするようになっていたのだと言いました。
あの声は何だったのか?
「声は聞こえた、、、ような気がします。」と20年後も言っていました。
決して嘘ではなかったと。
学校を休むための口実ではなかったとハッキリ言っていました。
今思ってもでも不思議だったと言います。
精神的な負担やストレスが、敏感な思春期にいた彼女に何かをささやいていたのかも知れません。
子どもが産まれた知らせがありましたので、今頃は旦那さんと、男の子と3人で仲良く暮らしていることでしょう。
彼女は幸せそうでした。それが一番良いことなのだと心から思えた再会でした。
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