金谷治先生といえば中国哲学の巨星ですが、難しい論文ばかりではなく、わかりやすい入門書タイプの著書もたくさん書かれています。
難しい本や論文を読むと眠くなる私も、先生のわかりやすい著書にずいぶん助けられました。
ここ最近、「老荘思想」が着目されていることを感じています。
有名な本なので多くの人がご存じでしょうが、紹介をかねて私なりに書いてみました。
記事の内容は、ほとんど『老荘思想がよくわかる本~あるがままの生き方のススメ』の丸写しです。ご容赦願います。
「老荘と儒教」『老荘思想がよくわかる本』から
老荘と儒教の相違点「表の思想と裏の思想」
儒 教
- 孔子から孟子、荀子と受け継がれ、漢の時代を経て、それぞれの王朝の為政者に支持された思想
- 政治権力者に認められた表向きの正統的な思想
- 政治的な舞台で役立ち、社会で活躍する場合はこれを支えとする
社会生活の営みにおいては、対人関係における公の生活、建前の生活があります。
建前=中国の言葉では「礼」
「礼」のきまりに従って生活することは、どんな社会でも、いつの時代でも必要なことで この社会人としての身の処し方を中心に考えていくのが儒教の考え方となります。
しかし、人間はきまりごとに従ってばかりいると窮屈になります。
社会生活では意に満たないことも多々発生し、ストレスがたまります。
建前の生活は順調にいくばかりではなく、絶えずピンチがやってきて、不安にさらされることもあります。
以上、引用です。下線部については全くその通りですね。
四柱命式を作ってみても、吉命式は少なく、「今イチ命式」の方が圧倒的に多いと感じます。
割合的には五分五分になるはずなのに、そうならないのが人間社会の宿命なのでしょう。
すなわち、「人生思うようにならない」と感じながら生きている人が圧倒的に多いわけです。
そう考えると、「礼」だけで満足して生きる人は極めて少なく、だから、次のようになるのでしょう。
つまり、「ギャップに悩む」ことが絶えず起こってきて、それを「どうやって解消するか」が人間として必要になってくるわけです。
もちろん、儒教でもそのことを考えていますが、それだけでは足りない。
それは「表向き」を看板にしているからです。
だから、人生には裏がある以上、「表向き」には限界があり、それを踏みはずすわけにはいかないというところがあります。
したがって、解消のためには別の立場に立たなければなりません。
つまり、「本音」の考え方に帰ってみるのです。
そういう本音というか、裏というか、「公的」と「私的」という形で対照して、「プライベート」と言ったりするのも当たらないかも知れませんが、社会的に活躍する表向きの場合と、自分自身に帰って自分の生き方を考える場合とに分けて考えると、その後者のほうが道家の思想、つまり老荘思想になるわけです。
『老荘思想がよくわかる本~あるがままの生き方のススメ』から引用
- 社会的活躍(公的)=表=儒教
- 自分の生き方(私的)=老荘思想
とまとめると、多くの人にとって、老荘思想の方が居心地よさそうに感じるのは特に今の時代は当然かもしれませんね。
「世の中、意のままにならない」と悩む人の方が圧倒的に多いのですから。
日本が元気いっぱいだった昭和の時代なら「表」の生き方にこだわってもイケイケどんどんの気分になれたことでしょう。
でも、令和の日本では、自分の生き方に焦点を当てたい人が増えるのも仕方がないように感じています。
道家思想
- 老子・荘子、列子、淮南子と続く
- 裏街道を行く裏道の思想
- 個人的な処世の問題、私的な人間としての生き方に役立つ
- プライベートな生活の慰安、悩みごとの解消
たとえば、失脚して不遇な地位に陥ってしまった場合は、『老子』や『荘子』の思想を思い出して、それによって慰められたり、精神生活を豊かなものにしたりする。
官吏生活で活躍するだけが人生ではないと思い定める。
「会社や出世だけが人生じゃないさ」という視点ですね。
こう考える人が昭和時代よりも圧倒的に増えています。
終身雇用制の時代も終わりを迎えたといわれて久しいですし。
会社の発展=自分の人生を豊かにする
という発想は時代遅れになってしまったのでしょうか…。
年代のせいか、何だか複雑な気持ちになります。
「わからないでもないけど…」みたいな思いですね。
スポンサーリンク
老荘と儒教の共通点「生活が最も重要な中心問題」
共通点についても、金谷先生は言及しています。
共通点
- 現実的な人間の生活が最も重要な中心問題
人間としていかに生きていくのがいいかということが主たる関心事です。
儒 家
あるべき人間の姿、人間はどうあるのがいいか、こうあるべきだという理想的人間というものを表立てていると思います。
ですから、いろいろな道徳の徳目、例えば仁とか義とか道とか徳というようなものは、すべて社会的人間の理想的なあり方を考えているわけです。
社会人としていかにあるべきかということで、一つの法則を立てて、それに自分を合わせていく。
これは人間の持っている向上心とか理想を追求するという性向にかなっているわけです。
『老荘思想がよくわかる本~あるがままの生き方のススメ』から引用
道 家
社会人としてどうあるべきかというより、人間の本質、あるがままの人間、裸の人間というものを考える、というように分けることもできるかと思います。
社会的な道家の側からいえば、仮面をかぶった――「礼」というきまりごとに従った生き方ではなくて、仮面を脱いでしまった裸の人間というものを考えようというのです。
『老荘思想がよくわかる本~あるがままの生き方のススメ』から引用
しかしながら、「あるがままの裸の人間」とは、私たちが考えるほど簡単なものではないようです。
私たち現代人が考えるのは、あるがままの裸の人間といえば、人間的な欲望のままにふるまう人間です。
建前の生活に従うと窮屈である。
窮屈というのはどこからくるのかというと、自分はあれもしたい、これもしたいといっぱい欲望があるのに、一定の型にはめられたような生活をしなければならない。
それが窮屈でたまらない。人間はそうした欲望的な存在です。
だから、その欲望に従ってそれを伸ばしていくのが、いちばん人間らしい。
人間のあるがままの本質ではないか。現代的に考えると、そういうことが痛感されます。
ところが、老子にしても、荘子にしても、道家の人々は、あるがままと言いながら、欲望というものを否定するのです。
これはどういうことか。つまり彼らがあるがままの人間と言っているのは、人間だけで考えていないのです。
「礼」に従った、社会の仕組みの中であるべき姿を追求していく儒家的人間の立場では、あるがままの人間というと、「礼」というような外枠を取り払って裸になり、自分の思いのままに勝手にふるまうような人間を考えたくなる。
しかし、道家のほうでそうならないのは、人間は人間だけで孤立しているのではなくて、物質世界、動物、植物、それからありとあらゆる万物、宇宙的な規模を含めての全体の中に人間を置いて考えているからなのです。
そういうところでは欲望など出てきようがない。
そこから人間のあるがままの姿をとらえていこうとする。
これが、現代的に欲望というもので人間を考えようというような立場とは、違うところなのです。
『老荘思想がよくわかる本~あるがままの生き方のススメ』から引用
「老荘思想を貫く生き方はとてもシンドイことなんだよ」と私に語ってくれた中国語の先生がいましたが、「宇宙的な規模の中の人間」を考えるとき、私の心に浮かぶのは「天・地・人」の言葉です。
人の一生を思うとき、天と地と人によって決まる「運命」の存在を思わずにはいられません。
スポンサーリンク
『老荘思想がよくわかる本(金谷治著)』四柱命式
また、四柱推命?と思われるかもしれません。
気になる人がいたら命式を見たくなるのは私の性なのです。
金谷治先生の四柱命式です。
月支が空亡していて、月支と日支が七冲しています。
正直言って、全然良い命式とはいえません。
学者として大いに名を馳せましたが、様々な苦労を乗り越え、人生を考え、学問に注力されたのではないかと僭越ながら推察申し上げます。
ありました!
ポチッと応援していただけるとハッピーです!