令和の日本も元気がないですね。
この記事では「基本的道徳」について書き記しました。
社会的存在としての人間にとって最も基本的な道徳とは何か。
古今東西の倫理学者は〈人間愛ー思いやり〉であると考えることで一致しています。
- 【人間愛ー思いやり】人は感情の動物
- 【人間愛ー思いやり】「生きがい」こそ意欲の原動力
- 【愛情と思いやり】意外と簡単、難しくない
- 【人間愛ー思いやり】「小さな親切」
- 【人間愛ー思いやり】キリストと孔子
- 愚息?小学1年生の頃のこと
【人間愛ー思いやり】人は感情の動物
家庭や職場、学校など生活の場の気分の好悪が、あらゆる意欲に端的に反映します。
気分を決定する最も大きな要因は、愛情と深くかかわっています。
愛情、すなわち好意、親切、思いやりに接すると、人はほのぼのと楽しく、この世は生きるに値する楽しいところとなります。
反対に、悪意、冷淡、無視によって、人はみじめに傷つき、果ては「死にいたる病」にも取りつかれたりします。
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【人間愛ー思いやり】「生きがい」こそ意欲の原動力
この「生きがい」こそあらゆる意欲の原動力ではないでしょうか。
「生きがい」、、、たとえば、
- 家族の生活を守るため仕事を頑張る
- 親を安心させるため(もちろん自分のためでもある)志望校に合格する
- 〇〇に喜んでもらうため努力する
けっこう前の話ですが、高校の同級生と居酒屋で2人の時間を楽しんでいたときのことです。
離れた場所に職場の上司も来ていることに気づいた友人は席まで挨拶に行きました。
しばらくして酔いが回った上司が「失礼します」と私たちの席の隣に座り込んできまいた。
その後、友人に対して説教のレベルを超えたひどい雑言を浴びせてきました。
10分程度だったでしょうか、その間友人は「はい」「そうですね」「気をつけます」の繰り返しで見ていて気の毒になりました。
友人の上司でなければ私は中に割って入りたいくらいでした。
だいたい、友人の前で部下を貶すなど人としてやってはいけないことです。
上司が去った後、
友人「あの人、酔うとああなるんだよ」
私「よく耐えたな。平時も?」
友人「さっきほど激しくはないけど、時にはね」
私「職場で毎日顔を合わせるのか?」
友人「家のローン、子ども3人、まあ仕方ないかな」
友人は、家庭という「生きがい」があるから耐えられる、と言いたかったのでしょう。
ちなみに私は酒の勢いを借りて説教をする人を好きになれません。
酒の勢いを借りて急に強気になり威張り散らす人のことです。
そんなとき、その人が狐に見えていたものです。
つまり、「虎(酒)の威を借る狐」です。
でも、ふだん仕事でお世話になっていたら反撃に転じるのも難しいんですよね。
だから、その時の友人の苦悩がよくわかります。
【愛情と思いやり】意外と簡単、難しくない
さて、人間同士の愛情、思いやりについて、あらためて考えてみます。
- 朝は「おはよう」と気軽に挨拶をかわす
- 心を開いてわだかまりなく語りあう
- 電車で座席を探している人には隣をあけてやる
こうしたささやかな思いやりが、人の心に灯をともし、生活の場を明るく楽しいものにするのかなと思います。
そこに、ほんわかとした「生きがい」が芽生えるのかなと。
生きがいとは何も「〇〇のため」と具体的でなくてもよいのだと。
日々お互いに愛情・思いやりを交し合える、そんな世の中になったら幸せを感じる人はもっと増えてくると思います。
【人間愛ー思いやり】「小さな親切」
昭和38年、東大の総長だった茅誠司氏が、卒業式で「小さな親切に心を配ろう」と訓示しました。
今では「小さな親切」として有名になりましたが、当時は「天下の東大で、幼稚園でもあるまいに」と、世評は芳しくなかったそうです。
しかし、「世界の平和も人類の幸福も、実はひとりひとりの思いやりから始まる」という趣旨が理解されるにつれ、「小さな親切運動」として全国に広がっていったのも、うなずけるしだいです。
【人間愛ー思いやり】キリストと孔子
人間にとって最も基本的な道徳、古今東西の倫理学者は、それは「人間愛ー思いやり」であると一致しています。
キリストは「汝がそうされたいように人にしてやれ」と説きました。
そして「これが律法である」(聖書)と結んでいます。
「汝がされたいように人もされたいだろう」と思いやる。
その思いやりこそ、時間と空間を超えた永遠の理法としての最高価値であるという認識にもとづいています。
孔子は「自分の欲することはまず人にしてやれ」と説きました。
「自分の欲しないことは人にするな(論語)」と教え、これを「恕(じょ)」と呼んでいます。
東西の先覚者は、いみじくも同一の真理を言い切っているのですね。
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愚息?小学1年生の頃のこと
どちらも70歳を過ぎた女性が息子に親切にしてくれた話です。
「おばさん」と呼んでも喜んでくれるでしょう。
野菜をくれた親切なおばさん
初夏に息子と2人で近所のローソンに立ち寄りました。
店の隣にビニルハウスがあります。その中に人がいることに気づいた息子が、
「こんにちは!」
中の女性も「こんにちは」。
道をスイスイ先に進む私に向かって、
「パパも挨拶しないとダメでしょ!」
と大声を張り上げる息子。
戻って私も「こんにちは」。
しばらく店の中で買い物をしていると、野菜を抱えた女性が店に入ってきました。
「さっきのボク、きっと良い子に育ちますよ。これどうぞ。」
と2袋の初夏の野菜をくれました。
近所とはいえ自宅から2㎞くらい離れています。もちろん初めて顔を合わせた方でした。
こういう親切もまだ残っているんだな!とうれしい気分になりました。
お菓子を買ってくれた優しいおばさん
これも夏に息子と近所のスーパー銭湯に行ったときの話です。
風呂上がりに2人でソフトクリームを食べていると、見知らぬ女性(70歳過ぎくらい)が近寄ってきました。
「ボクは何歳?かわいいね。少しお話ししてもいい?」
八戸に住むお孫さんが毎年夏に来るのですが、コロナの影響で来られなくなり、楽しそうにしているうちの息子とつい話したくなったということでした。
1分程度でその場から去ろうとする女性に、
息子「おばさん、これどうぞ」。
と、つい先ほどガチャチャで手に入れたプラスチックのダイヤモンド?を3個ばかり渡そうとしました。
「いいよ、いいよ。おばさんはボクとお話ししたかっただけで楽しかったから。大事に持って帰ってね」
それでも息子は、「大丈夫。たくさんあるから。持って帰って飾ってね」
と渡そうとします。
私「どうぞ。息子も喜びますから」と目で合図。
根負けした?おばさんはダイヤモンド?を受け取ってくれました。
「ありがとうね」
3人で「さようなら」
とお別れして玄関に向かうと、おばさんが遠くから
「ちょっと待っててね!」。
見るとレジで何かを買っています。
お菓子でした。
「これお礼だからね」
息子は遠慮しましたが、
私は「こういう時はありがたくいただこうね」と言いました。
お互いに「また会いましょうね」と言いながら、再度の「さようなら」を交わしてお別れしました。
子どもがいると得ですね(^_^)。心が温かくなりました。
でも、そのおばさんの顔、もう忘れてしまいました。
「また会ったときには声を掛けようね」と息子と話しながら帰宅したのに…。
50歳になると急速に記憶力が低下するといいますが本当のようです。
また、お話ししたいなと心から思うのですが。
やっぱり、まだまだ人の思いやりは残っています。
こういう体験が、息子の心の糧になってくれたらいいな…。
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