名を残した人のほとんど全員が、「自分は運が良かった」「あの出会いが人生を変えた」と言い残しています。
「チャンスは逃がすな!」ということでしょうか。
秀吉は信長に出会って人生が変わった
豊臣秀吉が、織田信長に出会って仕官できたのも運の巡り合わせでしょう。
もちろん、秀吉自身の才能や努力や人柄もありました。
本能寺の変で信長が死ぬ前に、天下布武を号して、大方を手中に収めてくれた上に乗っかったという幸運もありました。
それを信長無しに一から秀吉が成し得たかといえば、とても無理だったはずです。
また、信長に仕える前に、秀吉は駿河の今川義元の縁故を頼りました。
当時は、今川義元が大企業で、織田は零細企業みたいなものでした。
しかし、零細の方が面白い仕事ができるかもしれないと織田を選び、日本一の草履取りから出世の道が始まりました。
信長が討たれたタイミングもベストだった
信長を討った明智光秀を討つことで、秀吉は後に主導権を握れる立場を手に入れることができました。
「主君の仇を討つ」という泣かせる大義名分を持って応援をどんどん集めて、猛スピードで光秀を追い討ち取ったわけですが、この時もラッキーが重なりました。
一つは、織田家の重鎮だった柴田勝家や滝川一益らが、東国や北陸という遠方にいたこと。京都に戻るには時間が掛かりすぎます。
もう一つは、道中の食糧がすでに信長によって要所要所に用意されていたことでしょう。
これを食べながら進めばいいので、途中で兵士が飢えるなどがなかったし、農民から略奪をする必要もなかったわけです。
運の良い人は、ベストのタイミングで幸運に恵まれるようです。
明智光秀は頭の良い人だったらしいが…
光秀は戦場でも強いが、同時に大変な知識人だったと言われています。
信長ファンには憎まれていますが、地元ではとても人気があり、名君の誉れ高いとも聞いたことがあります。
しかし、文学的性格ゆえ悩みやすく、ハッタリを利かせることは不得手だったと思われます。
もしもの話ですが、秀吉が墨俣の一夜城の時に野武士たちに宣言したように、「成功したら恩賞は無限だ!」のようなハッタリが得意な人物だったら、歴史が変わっていた可能性もありそうです。
秀吉はおべっかの達人だった
九分九厘敵を攻め落とした後、
「もう少しで落ちますが、敵も必死でなかなか頑強です。何とぞ御大将のご出馬を」
と主君の信長に花を持たせたといいます。
ウマいですね!
この如才なさが光秀には無かったのでしょう。
やはり秀吉は、運もスゴいが、その性格も恐るべしですね。
伊藤博文も父親の破産が人生を変えた
伊藤博文も、父親が破産しなければ、水井武兵衛の養子にならなかったでしょうし、そうすると伊藤の姓を名乗ることもなかったわけです。
水井がのちに、伊藤弥右衛門の養子となったために、博文とその父も足軽になりました。
その後めぐり巡った縁から、来原良蔵に目を掛けられ、吉田松陰の松下村塾の入門へとつながったわけです。
その後の出世の理由には、もちろん伊藤自身の才能や努力や人柄もあったはずです。
伊藤博文の暗殺を予想した男、高島嘉右衛門
有名な話です。高島暦で有名な高島嘉右衛門は、「艮為山」の卦から、伊藤のロシア行きを懸命にとめたそうです。
高島嘉衛門先生(ママ)、伊藤博文の満州行きを占して艮三爻、ハルビン駅で安重根の凶弾に倒れるを聞き、引き止められなかった悔しさ嘆かれる。
『周易外伝』岡竜玄著
わかりやすい記事を見つけました。
おわりに
「運も実力のうち」と言いますが、実際にそうなのでしょうね。
「運を味方につける」という言葉もあります。
目には見えませんが「運」はやっぱりあると思います。
ただし、朝テレビに映る「今日の運勢」、あれはエンタテインメントです。
当たるなんて思ってはいけません。
「今日は、ごめんなさい。12位です」
と言われても気にする必要は全くないということです。
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