「サンタクロースなんていないよね?」。
小学1年生の息子から何度も質問されました。
昨年、とうとう根負けして「いないよ」と言いました。
反応は「やっぱりね」。
「信じている子がいるんだから学校で言ったらダメだよ」。「わかってるよ」。
「サンタさんがやって来る!」と思い続けてほしかった
「サンタさんはいる」「クリスマスイブの夜に来てくれる」
息子には信じ続けて欲しかったですネ。
なぜなら、夢を見させてあげたかったからです。
きっと、多くの親がそう思っているはずです。
「サンタさんはいない」ことを知ってしまうパターンは様々です。
私は、高校生に昔からよく聞いていたものです。
「何年生ぐらいの時、サンタがいないと知ったの?」
「どうしてわかったの?」
定番は「薄目を開けていたら親がプレゼントをソーッと置いて去るのを見た」です。
こんなパターンも聞きました。
- プレゼントと一緒に毎年お手紙も置いてあった。リビングに行くとテーブルの上にサンタの手紙と同じ便せんとペンが置いてあったので確信した。
- 薄々感づいていたけど、親が一生懸命だったので中学生になるまで信じるフリを続けた。
- 小学四年の時、親が教えてくれた。大泣きしてしまった。
- 友達の会話からなんとなくわかった。
サンタさんはいない
子どもがそのことを認識することは、成長の証と言えますが親にとってはちょっぴり寂しいことでもあります。
我が子には夢をずっと持ち続けてほしい
という願いがあるからでしょうね。
私自身は、息子に信じ続けてもらうために様々な試行錯誤(今思えばムダな抵抗)をしたものです。
今思えばむしょうに懐かしい…。
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今度は「神様なんていない」と言い出した
神様の存在を信じる信じないはサンタクロースと違って、私としては全然OKです。
信じるものは自分で見つけたらいい。
ただ、「感謝の気持ちだけは持ち続ける人になってほしいな」と思います。
目に見えないものへの感謝の思いですね。例えば、
- お米を作ってくれる人
- 服を作ってくれる人
- バスの運転手さん
つまり、自分を有形無形で支えてくれている人たちのことです。
そういう人たちがいなければ生活は成り立ちません。
目に見えないけど支えてくれている人たち
神様でないけれど、支えてくれる何かの存在を何となくでもいいから感じていてもらいたいなと思います。
ただ、昨年の夏、江別神社にお参りした時は息子を叱りました。
大きな声で「神様なんていないよ!」と言ったからです。
他に数人の参詣客がいました。
その中には深刻なお願い事を胸に秘めている人もいるかもしれません。
わらにもすがる思いでお願いに訪れている人がいたとしたら、
「神様はいない」は聞きたくない言葉に違いありません。
そのことを車の中で言って聞かせました。
その時はわかってくれたようでした。
しかし、その後しばらく「神社に行きたくない」と言うので困りました。
まあ、子どもですからね。
少し厳しく叱りすぎたかな?と私はちょっぴり反省しました。
私は多宗教信者!?
「神様なんていない!」と言い切る息子に強さと賢さを感じることもあります。
私自身を振り返ると、
小学生の頃は、祖父母に年に何度かお寺に連れて行かれ、それなりに楽しかった記憶があります。
餅まきに参加して、色がついた硬いお餅を拾ったりしたものです。
小学校5年生からカトリック教会で英語を教わりました。
先生はドイツ人の神父さん。
この本の最初に登場するパワフルな神父さんが大好きでした。
週に1回1時間の授業でした。
ところが、ある時期から前半30分は聖書のお話になりました。
英語の時間が半分になったのです。
賛美歌も歌ったし、お祈りも捧げました。
すると、塾生がどんどん辞めていきました。(^_^)
私は、聖書の話がおもしろくて通い続けました。
さて、中学校で知り合った友人はプロテスタントの信者でした。
私はイタズラ心が働き、次のように言いました。
「○○くん、この消しゴムをパンに変えてみろよ」
私にわずかばかり聖書の知識があったので、言ってみたくなったのでした。
○○くんは目を丸くしました。
「お前、悪魔みたいなことを言うな!」
「怖ろしいヤツだな」
と怒りました。
本当にそうですね。悪いやつですね。
高校生の頃、「般若心経」にハマる友人の影響で私も暗誦できるまでになりました。
キリスト教も仏教も融合性がないことはもちろん知っていました。
結論!私は、どうも多宗教信者のようです。
いえ、多宗教エセ信者かも知れません。
でも、目に見えない大きな力が存在することは確信しているつもりです。
だから、今は神社でも仏閣でも手を合わせる時には、一生懸命感謝の意をお伝えします。
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「他流派批判はしたくない」そういうのはキライ
占いについては、何人かの師匠について、それぞれの流派を学んできました。
もちろん、考え方を異にする流派の存在も知っています。
四柱推命では、格局の取り方が違うことも珍しくありません。
私は、もしかしたら占いでも多宗教信者なのかも知れません。
というのは、他流派の批判を見聞きするとゲンナリしてしまうのです。
「あの流派はダメ」「当たらない」「ヘボだ」とか公然と批判する人もいます。
でも、思います。
流派を確立するまで、筆舌に尽くしがたい努力と研鑽があったに違いないのだと。
ネットで調べると、「気学は奇門遁甲の一部に過ぎない」と書かれているものを見つけたりします。
歴史的背景はさておき、大正時代から日本に脈々と受け継がれてきたのが気学です。
もしかしたら、日本の風土に合うのかも知れません。
いずれ深く学んで検証してみたいなと思っています。
比較文学論みたいに。
そんな私ですから、他流派の人とお話しする機会があると「なるほど!」と思うことがあります。
「そういう理論があったんだ!」と。
ただ、簡単に「いいとこ取り」をするのは理論の根本を崩してしまう場合があるので戒めなければなりません。
しかしながら、良いものを参考にするのは大切なことだと考えています。
占いも進化するものだからです。
ということで、他流派の批判は奥義の極限まで究めた人にのみに許される行為だと私は思っています。
私はまだ自身に「卒業証書」を渡せる身ではなく、日々勉強しながら新たな発見をし続ける毎日を送っています。
おそらく永遠に卒業証書は自分に渡さないでしょう。
進化と深化への意志を最後まで持ち続けていたいからです。
ところで、正論を振りかざし合うくらい危険な行為はないですね。
20年くらい前ですが、テレビで「世界の指導者が集まって一度正義について十分話し合うべき」とコメントしたスポーツコメンテーターがいました。
私は「危険なことを言うもんだな」と思いました。
幸い、他のコメンテーターが「それは…」と諫めてくれました。
いくら“正”論でもお互いの主張をぶつけ過ぎると、ケンカにつながり最後は戦争にまで発展することは、世の歴史が証明しています。
「平和な発展」はとても困難なことです。
しかし、次そしてその次の世代のためにも必要なことだと思っています。
「微々々力でも今の世代の役割を果たさないと!」と息子を見て強く感じます。
いずれ彼も父親になり、サンタクロースのことで悩むに違いないのだから。
子ども「サンタさんってホントはいないんでしょ?」
親「…」
他愛のないことを本気で悩むことができる時代。
そういう平和な時代を継続したいものです。
クリスマスの曲は思い出に残るものが多いですね。
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